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アルメイダ

 日本に初めてキリスト教を伝えたのは、フランシスコ・ザビエルである。
 1549(天文18)年のことだ。
 それから3年後、ルイス・デ・アルメイダは日本(種子島)に着いた。(ちなみに桶狭間の戦いの8年前)
 アルメイダは、種子島から鹿児島へそして平戸へ向かう。
 その平戸で、トルレス神父から、告解と聖体の秘跡を受ける。
 当時、アルメイダは、貿易商人として、莫大な財産を築いていたが、日本へ向かう途中大嵐にあって、自身は何とか助かったが、同船していた雇われ人は、体をマストにくくりつけ、最後の祈りをしたまま死んでいた。
 その無残な光景を見たアルメイダは、自然の驚異と神への恐れに恐怖を覚え、先に逢ったザビエルの教えをやっと理解し、これまでの生き方を改悛し、神の僕として生きる決心をしたという。アルメイダ30歳の時だ。
 (ただし、ザビエルと逢った確証はない) 
 1555年、アルメイダは、平戸から府内(大分)へ赴く。
 戦国時代は、日本人の心が一番荒んでいた時代で、貧しくなった人々は、堕胎、捨子などが頻繁に行われていた。
 これを憂いたアルメイダは、この嬰児殺しの悪習ををやめさせようと、自分の財産の一部を寄付し、豊後の領主大友宗麟に懇願して、孤児のための収容施設を作った。
 しかし、当時このような施設を経験したことがなかった日本人は、アルメイダの行為を素直に受けられず、逆に悪い噂をたて、この事業は長続きしなかった。
 この年、アルメイダは、正式にイエズス会の入会を認められた。
 その際、アルメイダは、貿易商人として築きあげてきた莫大な財産を全て、教会に寄付した。
 アルメイダは、孤児院とともに、病院の創設も痛感していて、トルレスと共に、宗麟の許可を得て、病院を開設した。
 医師の資格を持っていたアルメイダは、多くの患者の治療に当たる。
 この病院でこれまで、日本では見られなかった治療法により、多くの患者の治癒を行う。
 また、数人の日本人に、外科的治療法を教えたという。
 西洋の進んだ医学・医療技術を伝え、広め、日本の医学に貢献したアルメイダ。
 しかし、イエズス会は、人間の魂を永遠に救済することが、聖職者の真の職務であり、聖職者による医療行為を禁止する「医療禁令」を出す。
 結局、アルメイダは、医療行為を日本人にゆだね、手を引く。
 そして、各地で布教行為を行っていたアルメイダが、やっと天草に足を踏み入れる。
 1566年のことだ。
 当時の天草は、いわゆる五人衆という支配者の元にあった。
 志岐(現在の苓北町)は、志岐氏の支配地。
 その支配者は、志岐隣泉。
 彼は、海(早崎海峡)を隔てた口之津が、南蛮貿易により、賑わいを見せていることから、宣教師派遣を再三にわたって、トルレスに申し入れる。
 その結果、トルレスは、アルメイダを志岐に派遣する。
 これが、天草にキリスト教が伝えられた初だ。
 しかし、隣泉は、キリスト教という宗教に魅せられたのではなく、貿易を望んでいた。
 だが、貧しい天草には、隣泉が思うような、貿易の利がなかったため、隣泉は、一応は受洗するがやがて棄教する。
 でも、志岐では隣泉棄教前は、教勢は益々盛んになり、聖歌隊の誕生、宗教会議が行われるなど、志岐は日本のキリスト教布教の中心になっていたという。
 最盛時は、志岐氏の領内で、およそ1,000人のキリシタンがいたという。
 1569年2月、志岐氏と天草下島の覇権を争っていた、天草鎮尚の求めにより、トルレスはアルメイダを河内浦(現河浦)に派遣する。
 天草氏は、上天草の島子を含む、本渡、下田、高浜、宮地、久玉など、五人衆の中でも最大勢力を持っていた。
 本拠地は河内浦で、本渡は支城であった。
 領主の鎮尚は、宣教師を招くほどだから、キリスト教の布教を許した。ただし、本音は南蛮貿易を期待してのことであったが。
 重臣の一人がまず受洗し、彼の同族一同がキリシタンになった。
 しかし、このキリシタンを快く思っていなかった、鎮尚の弟や仏僧は、最初に受洗した家臣をまず血祭りにあげようと、反撃を開始した。
 天草氏の内紛である。
 内紛が起きるというのは、当主が絶対的力を持っていなかったという事である。
 そのため、アルメイダは、一時河浦から避難する。
 当時、九州の雄を誇っていたのが、大友氏(宗麟)である。
 天草五人衆も、その支配下にあった。
 大友宗麟は、勿論当時熱心なキリシタンである。
 天草鎮尚は、そのため、宗麟に救いを求める。勿論宗麟は早速それに答えた。
 これにより、一応、天草氏領内での布教が公然とできるようになり、アルメイダも説教を開始した。
 その結果、更に信者が増えたが、これを黙って指を咥えているはずもない、弟や仏僧などの反キリシタンは、反撃を再開する。
 これに対して、優柔不断な鎮尚は、その場しのぎの対策で逃げ切ろうとする。
 そのため、安心して、布教を続けられないと判断したアルメイダは、河内浦を去る。
  アルメイダが領外に去ったことで、弟らは、公然と反旗を翻す。
 その勢いは、城主鎮尚を凌ぐ勢いで、鎮尚は、妻子やごく少数の家臣と共に、支城の本渡城へ逃避する。
 後日、鎮尚は、仇敵であった志岐氏などの協力を得て、弟を追いやり、再び天草氏としての主権を取り戻す。
 さて、肝心のアルメイダ。
 大友宗麟の元を訪れたあと、周防・山口の大内氏を訪ねる。
 更に、秋月の秋月種実を訪れ、豊後へ。
 豊後から日田と目まぐるしく活動をしている。
 そして、日田から秋月へ、更に大村へ向かうため、航路に依っていたが、その途中海賊に襲われた。
 命は助かったが、一同素っ裸にされたという。
 
 <以下工事中>

≪『天草河内浦キリシタン史』玉木譲著を元に作成≫

<注>告解=罪の赦しを得るのに必要な儀礼や、告白といった行為。
    秘跡=、イエスキリストによってによって制定され、教会にゆだねられた、神の恵みを実際にもたらす感覚的しるし。

   <ウィキペディア>



 アルメイダは1525年ポルトガルのリスボンに生まれ21歳で医師の資格を得、東洋貿易商人として活躍した。1555年平戸に渡りイエズス会に入会、私財を投じて豊後府内(大分)に孤児院を建てると共に、総合病院を開設、臨床的に外科医を養成するなど、わが国に最初の西洋医学を伝えた。
 1561年以降は布教活動に専心し1566年(永禄9年)志岐氏の招きで来島、島内各地で布教に従事し、1583年天草においてその生涯を終えた。この記念碑はアルメイダの人間愛の生涯を記念し、その終えんの地に建てられたものである。
アルメイダ記念碑 天草市殉教公園
由来


 ポルトガル人ルイス・デ・アルメイダ神父は
1583年天草で聖なる生涯を閉じた。
 かれは日本における西洋医学の創始者であって総合病院を開設し医療を行うかたわら日本人医師の養成にあたり育児園も創設して広く社会福祉事業に献身した。さらに宣教者として九州各地にキリストの教えの種子をまき精神の医者として力をつくした。
 かれは、殉教者荒川アダムやこのキリシタン墓地に記念されている人々の心に信仰の火をともしたが、今もこのキリスト平和像を示しつつ私たちの上に神の愛と恩恵を祈り求めるのである。
 本渡カトリック教会


ルイス・デ・アルメイダ上陸地跡南蛮船碇泊所跡       天草市河浦町一町田
 ルイス・デ・アルメイダ
 上陸地跡南蛮船碇泊所跡


 ルイス・デ・アルメイダ神父は「永久運動」とニックネームがつくほど精力的な布教を西日本各地で続けたのち、河内浦に帰り、1583年10月、59歳で昇天した。永眠の地は、ここより800mほど一町田中央寄りの信福寺境内(天草氏菩提寺)であるといわれているが、墓標は特定されていない。

 河内浦城主、天草鎮尚(ドン・ミゲル)は豊後(現大分)の領主、大友宗麟にならい海外貿易の拠点として、この地に蛮船碇泊所を開き、南蛮貿易及びキリスト教伝導を目的として、博愛の神父ルイス・デ・アルメイダ(貿易商人、外科医師、宣教師)を招いた。

≪参考書籍≫

『天草河内浦キリシタン史-イエズス会宣教師記録を基に』 玉木譲著 新人物往来社刊 
  この書によると、アルメイダも、当初は奴隷商人などとして、巨万の富を得たが、それらの人生に虚無を感じ、私財を全て投げ出し、キリスト教伝道に人生をかけたという。
『完訳フロイス日本史・』全12巻  中公文庫