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 古学舎  芳證寺・衆寮堂  福連木尋常小学校跡 高浜尋常小学校西平分教場 高浜小学校皿山分教場跡


 
   
芳證寺・衆寮堂  天草市五和町御領 芳證寺

 五和町指定文化財明治8年(1875)御領小学校開校に際し、御領村が校舎としてこの衆寮堂を借り受け、教師 境 糺氏の指導の下、義務教育が始められた。明治13年(1880)長岡役座跡に新校舎が出来るまで校舎として使用されたもので、現存する校舎としては国内でも数ヶ所しか保存されていないという貴重な文化財であります。
 
 
   福連木尋常小学校跡 天草市天草町福連木

 明治8年4月27日に、鎮道寺説教所を仮校舎として福連木尋常小学校が開校された。
 明治12年10月に現在の福連木小学校の地に建築面積51.07m2の草葺を新設し移転したが、明治29年4月校舎狭隘のため、当説教所を文教室として使用した。


 天草町教育委員会

 
     高浜尋常小学校西平分教場
 
   天草市天草町高浜西平

 明治29年4月1日、高浜尋常小学校西平分教場として当所に設置された。
 明治32年1月に全焼、明治38年8月には暴風による倒壊という災厄にあい、大正14年に現在の姿に新築された。
 西平地区の教育を担っていたが、国民学校令による新編成に伴い昭和16年4月1日廃止された。
 その後、昭和20年5月5日より学校分散が行われ一時的に使用されたが、終戦後の9月11日に分散教育は解かれその幕を閉じた。



高浜小学校皿山分教場跡

 
<標柱案内文> 

大正3年4月1日、高浜尋常小学校皿山分教場として当初に設置された。昭和6年4月12日には赤崎伝三郎氏の寄贈により校舎は新築され、昭和10年9月1日廃止されされた。その後、昭和2055日より学校分散が行われ一時的に使用されたが、終戦後の9月11日に分散教育は解かれ、以後分教場として使用されることなくその幕を閉じた。

≪参考≫赤崎伝三郎について

◇ 明治4年9月 高浜村皿山の農家に生まれる。
◇小学校を終えると、一時陶器製造などを行う。
◇明治22年春、長崎に出て、ホテルのコックに住みつく。
◇23年、念願の海外への渡航を果たす。
◇上海、香港、サイゴン、ボンベイ、ザンジバル(東アフリカ)を放浪した末、明治37年1月、やっとフランス領マダガスカルの軍港ジェゴスワレズに腰を据える。そこで、フランス軍人相手の酒場を開き、予想以上の繁盛をみる。
◇明治37年2月、日露戦争勃発。苦戦続きのロシアは、バルチック艦隊を日本に派遣。その艦隊が、ロシアの同盟国であったフランス領マダガスカルに立ち寄る。(12月29日)
◇この情報を、赤崎はインドのボンベイにあった日本領事館に打電。日本はこのことは既に承知していたが、一民間人が情報を提供したという事で、海軍首脳部に大きな感動を与える。
◇日露戦争に日本が勝利。
◇酒場は益々賑わいを増す。
◇ホテルジャパンと名付けたホテル開業や映画館開業をなす。いずれも大当たりで、やがてマダカスカル島唯一の富豪と称されるほどの富を築く。
◇昭和4年、事業を仏・英人に譲り帰国。海外へ出て40年後のことである。
◇帰国後は、下田温泉にホテル望洋閣や高浜に豪邸を建てる一方、日本赤十字社に寄付をするなど公共事業に尽くすことを楽しみに、余生を送った。
◇太平洋戦争末期の昭和20年5月、死去。享年75歳

           〈資料・『富岡回顧録』田中昭策著〉
           〈参考・『新・天草学』熊本日日新聞社〉


 

帰国後、赤崎伝三郎が建てた豪邸。
現在は、白磯旅館になっている