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姫様の墓と木斛(もっこく)   天草市二浦町亀浦

  
姫之河内の木斛は天草市指定文化財
    指定年月 昭和55年4月1日

在りし日の木斛   
右の写真に刻んである
白衣観音像おわかりいただけであろうか


亀浦の姫の河内橋の近くに天草市指定文化財の巨大な木斛の木がある。
実際には、あったというべきだろう。
というのは、この木斛は枯れてしまったからだ。

 以下は木斛健在の頃記したものである。

木斛自体は珍しい木ではないが、これまで巨大な木はそうざらにはないものと思われる。
ネットで調べても、樹高は10メートルぐらいとある。
樹高20メートルをにもなるのは、相当の大木といえるだろう。
樹の下には、市の案内板が建っている。
それによると、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人が、ここまで逃れてきて、その落人の姫様が隠れ住んだという伝説があるとなっている。

 以下、資料は「あまくさの民俗と傳承 -13-」の「姫様の墓 唐津藩主二代寺沢堅高の子?」 浜崎献作  による。

ところが、地元の人の話では、地元の言い伝えとして、姫様は平家の落人ではなく、天草・島原の乱当時、天草を領していた寺沢堅高の隠し子であるという。
平家と寺沢では、年代的にも460年も差があるが、共通しているのはどちらも、落ちて行った人の姫様ということだろうか。

どちらの伝説、言い伝えを信じるかということではないが、確かに樹の根元には、それらしき遺跡がある。
姫様の碑といわれる自然石は樹の根付けに食い込んでいる。
この石をよく見ると(事前知識があったためだが)、白衣観音像が刻んである。
ところが、これと全く同じ観音像が、天草市栖本町の山浦観音堂の岩にも刻まれている。
山浦観音は元禄14年(1701年)に建立したと記録があるというから、寺沢とほぼ同じ年代ということで寺沢氏に軍配が上がるかもしれない。
参考までに年代を記してみると、

  壇ノ浦の戦い  文治元年(1185年)   今から約835年前
  寺沢堅高自刃  慶安元年(1648年)   今から約370年前
  山浦観音建立  元禄14年(1701年)   今から約320年前
 
 厳密にいえば堅高自刃と山浦観音では年の開きがあるが、堅高は39歳で自刃しているところから、姫様が堅高自刃当時幼かったとすれば、つじつまが合う。
 
 また、先の地元の人によると、近くに姫様の屋敷跡もあり、跡地から茶碗も発見されたとある。

 さて、モッコクの樹に戻るが、樹齢は何年になるのだろう。木を切らないでも、樹齢を図る方法はないものだろうか。
 平家ならば樹齢800年近く。
 寺沢なら360年。
 これ程の開きならば、専門家なら分かるかもしれない。
 もっとも、寺沢の姫様としても、墓を作るときに木を植えたとも限らないし、木が伝説と関係なしに生えた(植えられた)かも知れない。
 こうしたことは、深く追求しないで、あーそうなんだと、ロマンチックに思っていたほうが楽しくていいのかもしれない。
 
 
 とはいえ、こうした遺跡は、私たちの日常生活には何の役にもたたないが、ロマンと我々先祖が歩んできた道の尊い遺物である。
 大事に保存していきたい。
 また、こうした地元の歴史研究にたずさわって、多くの研究成果をあげておられる郷土史家の皆さんに敬意を表するとともに、行政も支援の手をもっと差し伸べるべきだと思う。



 
 木斛枯れる!!   →  再生図る人々に敬意!!

 悲しいかな、この木斛が現在は枯れてしまっている。
 文化財といっても、生きている故に、いつか消滅するのは必然とはいえ、惜しい。
 ただし、地元の人々により、枯れる寸前、最後に力を振り絞って、新芽を出したのを、専門家の手にゆだね、再生を図っていると聞いた。
 かつての雄々しい姿を取り戻すのには、かなりの年数を必要とするが、こうした文化財の維持に努める人々の努力と献身に感謝!!

 クローン樹 生育中
   2022年12月8日 撮影

   
     生育中の木斛     枯れて伐採された木斛


 <参考>
 ちなみに浜崎献作氏は天草市有明町大浦の「サンタマリア館」を父親の浜崎栄三さんから引き継ぎ館長として運営されていたが、館は惜しくも配館となり、貴重な史資料は、上天草市の「天草四郎ミュージアム」に移管されている。
 また、氏はキリシタン史研究者であり、「天草の伝承キリシタンとオラショ」「天草かくれキリシタン宗門心得違い始末」(平田正範遺稿 父との共同編集)などの著作がある。