冬切事件

    天草島原一揆 乱後の処理 残党処刑

 天草島原一揆は、寛永15年2月28日の原城総攻撃で幕が下りた。
 原城に籠る一揆勢皆殺しという結果を持って。
 だが、悲劇はこれだけではなかった。 
 乱後の寛永15年3月18日、富岡冬切り(富岡小学校南側・大手門附近?)で、地元に残っていた一揆関係者と思われる老若男女76人が処刑されたのである。
 詳しい史料が残っていないようで、史家の間でも推察の域を出ていないようだが、事件の概要は、
 ①一揆の最中、上津浦の山中に隠れていた100人余の人々を、熊本藩と唐津藩の兵士が見つけ、その人々を富岡城へ連行し、押し込めていた。
 ②乱が終結した際、この人々の処遇について、松平信綱に図ったところ、吟味の上、切支丹は処刑せよとの命を受けた。
 ③吟味の上、100人余の内76人がキリシタンと判断し、冬切りの地で処刑した。
 
 特徴としては、当時は連座制というか、罪を犯した人のみを処罰するのではなく、一族を処罰するという厳しいものがあり、その結果、幼子も容赦なく処刑されている。
 残されている史料から性別、年齢別に累計すると、成人男性32名、成人女性22名、そして幼子を含めた子供22名ということである。
 また、村別に見ると、﨑津村、今留村、小島村、主留村、白木河内村、亀の浦村と一揆にはほとんど加わっていない村も多い。さらに、志岐村、馬場村、町山口村の現在の苓北町、天草市本渡域、そして大矢野村。
 こうしてみると、一揆に加わりたくて上津浦迄来たが、何らかの理由で加わることが出来ず、唐津藩や肥後藩の残党駈りにあって、捕まったと見るべきだろうか。
 また、100余人の内、20余人は処刑を免れている。この免れた人は、キリシタンでないと判断されたためと思うが、その判断根拠は何だったのか。説によると、踏絵が行われたというが、そんな単純なことで、当時の過酷な取り調べから免れたのか。疑問がある。
 とにかく、この冬切り事件は、もっと研究に値するものだと思うが、いかんせん史料がない以上、どうしようもない。

 唯一の史料ともいえるのが、深谷市田中家文書。(深谷市=埼玉県北西部の市)
 何で、天草から遠く離れた深谷市に、貴重な史料が残されているのか不明だが、お蔭で冬切り事件の一端が分かる。
 その深谷市田中家文書を、『原資料で綴る天草島原の乱』本渡市・鶴田倉造編集 が記載しているので、その内容を紹介したい。
 ただ、この文書には、処刑された人々の名前が記載されているが、その名前は後述の表に譲るとして、事務的?な部分だけを紹介する。



     富岡冬切にて処刑者名簿
   (深谷市田中家文書)寛永15・3・18
 
  中島与左衛門分
    﨑津村   人数16人(氏名等は別紙参照・以下も)
    今留村   人数5人
    小嶋村   人数3人
    主留村   人数1名 
    白木河内村 人数1名
    壱町田村  人数5人
    亀之浦村  人数4人
    男女合 35人 内21人男 14人女
    以上
   以上右通念を入改申候所如件
    寛永拾五年三月十八日
               川副市右衛門尉 (花押)
               野瀬源二兵衛  (花押)
               津田五郎介   (花押)
               川副茂左衛門  (花押)
               大槻六右衛門  (花押)
               中島与左衛門  (花押)
     原田伊代殿

  九里六左衛門分
    志岐村   人数14人
    馬場村   人数14人
    町山口村  人数6人
   男女合 38人

  石原太郎左衛門分
    大矢野村  人数3人

   人数都合76人
    右何も成敗仕 首富岡冬切に懸け置申仍仞如件
     寛永拾五年三月十八日
                 原田伊予守
                 武石伊兵衛
     岡島二郎兵衛殿
     石川三左衛門殿
  以上

   右之通念を入改申候所如件、
     寛永拾五年三月十八日 
                 大槻喜右衛門(花押)
                 吉村半左衛門
                 九里六左衛門(花押)
     原田伊予殿


     ※ 補足説明
    この文書に記載されている氏名について簡単に記すと。
    先ず○○分となっている人名は、唐津藩が設置した郡代である。
     本戸郡代   九里六左衛門
     河内浦郡代  中島与左衛門
     栖本郡代   石原太郎左衛門

     原田伊代      唐津藩武者奉行 1,000石
     川副市右衛門尉   乱当時三宅籐兵衛組 150石6人扶持
     津田五郎介     乱当時三宅籐兵衛組 200石8人扶持
     川副茂左衛門    乱当時三宅籐兵衛組 100石
     大槻六右衛門    乱当時三宅籐兵衛組 100石5人
     岡島二郎兵衛    寛永14年当時江戸家老
     石川三左衛門    乱当時家老 1,500石
      (以上「寺沢藩士による天草一揆書上」より)
    

 この冬切処刑は、上使松平信綱の命により執行された(五和町史)と言われるが、真実は?
 ただ、処刑をしたのは、唐津藩であることは、この文書に登場する人物が、唐津藩士であることから、信綱の命によるものか、唐津藩の自主によるかは別として、唐津藩の手に依って処刑が実施されたという事が分かる。


    冬切りの処刑者の供養塔?
   
  一揆で処断された原城に籠った3万数千人の首は、見せしめのため、原城、長崎、そして富岡に3分の1づつ運ばれ埋められた。
 その富岡や原城跡に埋められた首級を慰霊するために、後に天草の代官となる鈴木重成が、供養するために慰霊塔を建てたと言われる。それが現存する国指定文化財の「吉利支丹供養塔」である。
 冬切りの処刑は、当然代官鈴木重成も知っていたと思う。ただ、幼子迄処刑された事件を、鈴木代官が、慰霊塔を建てることなく見過ごしたという事は考えづらい。
 その慰霊塔が、重成が最初に建立した円通寺に今も残されている石碑ではないかと、郷土史家の浜崎献作氏は云う。果たして真実は?


 この塔には、次のように刻まれている。
      慶安元白戌
     
三界萬霊
      七月自恣辰


 参考::天のふたや 令和5年5月20日 第40号
     この塔が建立されたのは、冬切事件から約10年後である。
  関連する出来事を纏めてみると。

   天草島原一揆 勃発  1637  寛永14年
          終結  1638  寛永15年 2月28日
   冬切事件       1638  寛永15年 3月18日
   鈴木重成代官着任   1641  寛永18年
   円通寺 建立     1645  正保2年9月25日
   吉利支丹供養塔    1647  正保4年
   円通寺三界萬霊塔   1648  慶安元年2月

 興味深いのは、円通寺の塔が吉利支丹供養塔建立の翌年である事。つまり極めて近い間に建立されている。


 両塔を比べてみると、吉利支丹供養塔の碑文が、長々と刻まれているの対し、円通寺の塔は、一般的な塔に見られる「三界萬霊」という碑銘だけである。
 「三界萬霊」とは
 仏教語で三界は、欲界・色界・無色界をいい、萬霊というのは欲・色・無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界をさしている。それらを供養することが三界萬霊塔である。(WP)
 この意味からすると、無常に殺された人々の慰霊塔としては、やや異にすると言えなくもない。



   以下、冬切事件について記した、市町史を掲載する。

「本渡市史
 残党処刑 なお、さらに乱後の仕置で忘れてならないことは、富岡城に押し込められていた100人余の百姓たちの処置である。この者たちは前年一二月、唐津藩兵と熊本藩兵が上津浦に押し詰めた時山一中に隠れていて見つけられ、上使に伺ったところ富岡城に押し込めておけとのことで熊本藩の清田石見によって富岡域まで送り届けられ富岡城内に虎落(もがり)を結いまわして押し込めてあったものである。二月一八日富岡で七六人の者が処刑され、冬切に晒されているが、これはたぶん三月一五日、富岡を訪れた信綱等の指示によって処刑が命じられたのに違いない。



   「苓北町史
 富岡では三月十八日老幼男女76名の処刑が行われて、冬切りにさらされている。これらのものがどのようないきさつで処刑されたか不明であるが、十二月九日上津浦山中にかくれていた200人ほどの者が富岡城に押し込められていたので、それを吟味の結果処刑したものであろうか。
 (処刑者の処刑者の氏名・年齢等が記されているが略)

 人数都合七拾六人
  右何も成敗仕、首富岡冬切ニ懸け置申仍如件
   寛永拾五年三月十八日
                      原田伊豫守
                      武石伊兵衛
   岡嶋二郎兵衛殿                   
   石川三左衛門殿                   
          註 原田伊予守  三宅籐兵衛討死の後の富岡城代。



   「五和町史
 
残党処刑 なお、さらに乱後の仕置で忘れてならないことは、富岡城に押し込められていた100人余の農民たちの処置である。この者たちは前年一二月、唐津藩兵と熊本藩兵が上津浦に押し詰めた時、山中に隠れていて見つけられ、上使に伺ったところ富岡城に押し込めておけとのことで熊本藩の清田石見によって富岡城まで送り届けられ富岡城内に虎落を結いまわして押し込めてあったものや、河内の浦に入牢させられていた者たちであろう。
 前記のとおり、二月二日には寺沢堅高も富岡に帰ってきて、二月二四日には在番中の伊東祐久・松平忠昭両名とともに天草残留者の絵踏みが行われている。またそれには当時上津浦にきていた入来院重高(島津義虎五男,志岐諸経義弟)も立ち会っている事は注目に値する。これか天草で行われた最初の踏み絵かと思われる。二月一八日富岡の冬切で七六名の老幼男女が処刑されているが、これはその絵踏みで怪しいと判断されたものを一五日の信綱の命によって処刑したものであろう。



   「改訂版 天草の歴史」天草市教育委員会

残党処刑
 寛永一四年一二月、無人になった上津浦の山中で小屋に潜む百姓100人ばかりを唐津と熊本の藩兵が発見した。彼らは上使の命によつて富岡城に移され、虎落(モガリ)を結い回して押し込められた。原城陥落の後、寛永一五年三月一八日、そのうち、76人が処刑され富岡の冬切に晒された。
 上使松平信綱は四月八日に小倉に到着し、一三日に唐津藩の処分を決定しているので、それまでは天草は唐津藩の支配である。残党の処刑はまだ富岡城に詰めていた唐津藩によって執行されたものと考えられ。

 註 虎落(もがり) 枝を落とした竹を互い違いに組み合わせ、縄で結び付けた柵(さく)。家や砦(とりで)などの囲いとする。竹矢来(たけやらい)。

冬切りでの処刑者一覧
当主 関係 氏名 年齢 家族単位 村単位
﨑津村
(河浦町)
清介 53 4 16
息子 勘作 24
おさ 11
やゝ 5
六兵衛 21 2
46
四右衛門 45 4
31
まん 13
ひめ 2
次兵衛 32 3
30
息子 八十郎 2
左衛門 61 2
50
孫十郎 49 1
今留村
(河浦町)
三郎左衛門 50 2 5
45
市右エ門尉 53 1
加右衛門 48 2
43
小嶋村
(河浦町)
千右衛門尉 52 3 3
46
息子 長兵衛 27
主留村
(河浦町)
角介 62 1 1
白木河内村
(河浦町)
正左衛門 69 1 1
一町田村
(河浦町)
源左衛門   38 5 5
38
息子 長松 11
息子 杢左衛門 8
息子 おと房 4
亀之浦村
(二浦町)
与作 42 4 4
33
息子 まつ 3
善二郎 21
大矢野村
(上天草市)
宗せ女房 56 1 3
惣右衛門女房 60 2
〃 娘 11
志岐村
(苓北町)
兵作 37 5 14
31
きく 9
ミツ 5
兵助 15
権八 29 4
25
息子 6
きく 4
助七 26 4
  20
65
五郎介 16
四郎衛門尉 56 1
馬場村
(本渡)
清兵衛 50 7 14
42
息子 才蔵 17
息子 治部 20
息子 勘八 12
息子 勘十郎 8
ちよ 14
清右衛門 70 2
72
宇介 30 3
60
九蔵 18
新五 35 1
主税後家 75 1
町山口村
(本渡)
与七 42 4 10
70
きく 18
息子 幸吉 15
惣右衛門 52 6
42
息子 小左衛門 20
息子 作介 15
ミツ 10
息子   0
    大人 男 32人
大人 女 22人
子ども  22人
計    76人
  『原資料で綴る 天草島原の乱』鶴田倉造編集 天草市発行 
   原資料 深谷市田中家文書より