古墳目次 2010.12.03up

大矢野町の古墳



千崎古墳群  上天草市大矢野町維和
     市指定文化財

 【現地説明板より】

 
千崎古墳群

 当地の古墳群は5群からなり、自然に露出した石棺だけでも積石塚13基、竪穴石室1基、箱式石棺13基(昭和53年現在)以上あり、又他に本島周辺の島々、西岸の千束鷲の浦、南端の広浦、東岸の越路等多数の古墳と共に天草古墳 約200基の主要な部分を占めている。
 而も弥生式から古墳前期、中、後期迄の多年にわたる古墳が集団で存在し古き時代を知る上での貴重な古墳群でもある。
 又この付近の禿島近くの海底からは奈良時代のものと推定される布目瓦が発見され天草國造(郡役所)が最初大矢野地方に設置された記録との関連も推考されている。
 なお弥生時代に農耕文化が始まっても耕地の限られた当地方では、その生活基盤は海であり、国内、国外との交易に活躍した豪族の墳墓も海の見渡せる丘陵の上に安置されたものと思われる。
 この古墳群は考古学上の貴重な資料であるだけに大切に整備保存が望まれている。

 平成4年10月15日  上天草市教育委員会


広浦装飾古墳群  上天草市大矢野町維和
     市指定文化財【現地説明板より】

  【現地説明板より】
 
 
広浦装飾古墳跡地   

 大正初期頃迄、この岬の丘に数個の古墳があって、この古墳は端から三番目に所在していたと伝えられ、大正七年に、この地に堀鉱業株式会社の精錬所事務室新築に際し破壊されたが、累積放置されていた棺材の中から、彫刻のある石材四個が発見され、内二個は現在熊本県立美術館地下に展示保管されており、他の二個は当地所に残されたまま所在不明となり惜しまれている。
 二個の一つには、写実的な浮彫りで、鞘に納めた太刀に刀子を添えてあり、他の一個には鏡を吊り下げた模様が彫り込まれている。
 この古墳は、箱式石棺で、側壁は各四枚の砂岩の切石をもって組まれ、内壁には朱色をもって塗ってあり、底面には貝殻を敷き、人骨、歯及び直刀の残欠があったと記録されている。
 当時、この古墳は、対岸の長砂連装飾古墳群と相対し、古き時代、この静かなる海峡も重要な交易の海路として活用されたと思われるだけに海に生きた海民族の墓と推考されている。

 平成6年10月20日  上天草市教育委員会



長砂連装飾古墳   上天草市大矢野町中
    熊本県指定文化財

【現地説明板より】

 
史跡長砂連古墳
        熊本県指定 昭和50年5月7日

 昭和9年4月7日、金毘羅宮の建設工事によって発見された古墳で、発見当時すでに原形を失っていた。
 もともと横穴式石室をもつ円墳と思われるが、現在凝灰岩の切石でできた長さ2.06m、幅1.86mの遺構だけが残っている。
 石室の左右にの壁面には、直線と曲線で形作られた直弧文とよばれる装飾文様が彫られているほか、刀掛けと思われる四角な突起が見られる。
 石材には、赤い彩色の跡がかすかに見える。石室内から直刀一、鉄鉾一、鉄鏃破片、土器片等が採集された。
 柳の瀬戸をまたいで存在する維和の広浦古墳や松島の大戸鼻古墳と共に、天草では数少ない装飾古墳で、五世紀の前半に作られた貴重な古墳である。
 昭和50年熊本県の補助を受け、保護施設を設けた。

        上天草市教育委員会   平成3年11月30日


 この古墳は昭和9年に発見されたもので、そのときすでに墳丘は破壊されており、石室が露出していた。
 石室は、長さ2.06m、幅1.86m、高さ0.7mで、内部は砂岩の板石で3区に分かれて、屍床を形作る。
 壁全体が赤く塗られており、左右の壁には直弧文が半肉彫りにされている。
 また、右側の壁には上下二つずつ四角の突起があり、刀が掛けられたものと推定されている。
 現在の土盛りは昭和50年に保存のために築いたものであり、元の墳丘は不明である。