城址索引へ                                                             2016.02.25


久玉城址   天草市 久玉町

 天草市久玉町にある久玉城址は、天草にあまたある城址の中で2つだけ、天草市倉岳町棚底の棚底城址とともに、県指定史跡となっている。
この久玉城は、中世城のみの遺構と考えられていたようだが、最近の研究で、寺澤氏が手を加えた、中世城+近世城の合作と言えるようだ。
 現在久玉城址は、干拓によりやや内陸部にあるが、築城当時は、城は海に面していたと考えられている。つまり、海城であった。天草各地にある古墳も海に面しており、天草は古来から海の民であった。 
 久玉氏も、城の規模からして、一時的には海外貿易などでかなりの勢力を持っていたのかもしれない。
 ただ、同じ海城の棚底城と違い、遺物が残されていないようで、その点がやや気になる。後に久玉氏を吸収した天草氏や久玉城を改修した寺澤氏などが、その遺物を根こそぎ持ち帰ったのかもしれない。
 とにかく、文字による記録がなく、遺物が無くても、遺構があることで、かつてこの城を築き、活動した武士たちのロマンを感じさせる。
 「久玉城物語」的な小説にもなりそうだが、その才が無いのが悔やまれる。

 久玉村には久玉組の大庄屋が配置されていた。久玉組は久玉村の他、牛深村、魚貫村、深海村、早浦村、亀浦村、宮野河内村の七ヶ村からなる、天草下島南端の組である。大庄屋は、基本的にそれらの村の中で、中心となる(規模の大きい)村に配置されるのが普通だが、久玉村は牛深村と比べても、人口、家数で牛深村に劣る。その久玉村に大庄屋が配置されたのはなぜだろう。
 それは、村高に於いて久玉村が多い、そして大庄屋にふさわしい家として、中原家が存在していたからかもしれない。
 ただその他に、久玉村が誇るものと言えば、かつて歴史的に見て、久玉が付近の中心地であったということもあるだろう。中世の天草は、五人衆と言われる五氏の土豪が支配していたことは有名だが、少し時代を遡れば、さらに数氏がいた。その一人が久玉氏である。

 久玉氏の全盛期は、15世紀から16世紀にかけてといわれる。日本の歴史区分からいうと、室町時代後半である。久玉氏は天文年間頃に、河内浦を中心に勢力を伸ばしてきた天草氏に併合され、消え去ってしまうが、最盛期の勢力はすごいものがあったようだ。それは、久玉城址に見ることができる。その規模の大きさは、五人衆の居城をもしのぐからである。倉岳町棚底の棚底城址とともに、天草でただ二つだけ、県指定史跡となっている事からもそれは分かる。
 江戸時代になると、米中心の経済になるが、久玉氏の頃は、海を中心にした経済であったようだ。久玉城の海側の端は、現在はすっかり干拓されているが、当時は、城端まで海であったようで、城から直接海に乗り出し、交易をしたりあるいは海賊と言われる類だったのかもしれない。久玉城は中世城としては珍しく石垣を持った城であり、その意石垣の石も海の石を用いられているという。また、城跡に案内標柱が建てられているが、それを見ても立派な城であったことが分かる。ただ近年の研究によると、城内の石垣は、後年寺沢期のものといわれているようだが、鈴木代官による行政区割りの際には、まだその名残で、久玉が中心であったのかもしれない。

 
 

熊本県指定史跡 久玉城跡 
 
    昭和48年3月28日指定
     熊本県教育委員会

 ここは、中世に牛深を拠点としていた豪族久玉氏の居城と伝えられる中世の城跡である。城域は主軸の長さ235m、幅50mに及ぶ規模で、五つの区画を階段状に造成している。最高所に弓状の土塁に囲まれた狼煙台を設け、その北、西、東の三方に腰曲輪、南は堅堀によって堅固な城を形成している。また、中心区画には野面積みの石垣が残っており、近世的石垣を持つ中世城として注目される。

  

 






熊本県指定史跡  久玉城跡

              所 在 地 天草市久玉町
              指定年月日 昭和48年3月28日

 久玉城跡は、この地方の領主であった久玉氏によって築かれた城と伝えられています。築城時期は定かではありませんが、明応10年(1501)に久玉氏が天草一揆中(天草の国人領主八氏による連合体)の一氏として数えられており、この頃すでに久玉城が居城として機能していたと考えられます。
 久玉氏は16世紀前半に河内浦城を居城とする天草氏の傘下に入ったと考えられ、16世紀後半には久玉城は天草氏の支城として記録に見えています。
 永禄12年(1569)、天草氏はキリスト教を導入しようとする当主天草尚種(ドン・ミゲル)と導入に反対する2人の弟の間に内紛が発生し、久玉城は弟方に占拠されました。2人の弟は島津薩州家(島津義虎)や相良氏の支援を受け、天正2年(1574)まで久玉城に籠り抵抗しましたが、尚種に敗れ天草を追われました。これ以後、久玉城周辺でもキリスト教が広まり、宣教師の記録では天正8年(1580)に「司祭館が久玉城に作られ司祭1人が在住した」と記述されています。
 関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)、天草は唐津藩寺澤氏の飛地領となり、久玉城は寺澤氏によって大改修が施されました。曲輪@・Aの周囲に見られる高石垣は、同じく寺澤氏の支城である獅子城跡(佐賀県唐津市)などの高石垣と共通を持つことから、江戸時代初期の遺稿と考えられます。強固な石垣を土台とする曲輪Aには城主の館や店主などの立派な建築物があったと想定され、江戸時代初期の絵図『慶長肥後国絵図』に描かれた久玉城は天守閣風の櫓が表現されています。
 城の頂部にあたる曲輪C・Dには、土塁や土橋、切岸など中世城の様相を留めており、久玉氏・天草氏時代の遺構と考えられます。久玉城跡は中世城跡近代城跡、両者の遺構が良好に保存されている貴重な史跡です。 

 土塁と曲輪

 城内最高所の曲輪Dには、高さ1m程の土塁が残っています。土塁は中世城郭でよく用いられた技術で、城壁をより高く見せたり、兵士が伏せるための目隠しなどとして有効な防御施設でした。久玉氏や天草氏が統治していた時代の遺構と考えられます。

 長大な石垣

 曲輪Aの南側に築かれた石垣は、高さ約5m長さ約47mの威容を誇ります。石垣の隅角部は大部分が土中に埋没しており構造が不明瞭ですが、角石を互い違いに積むことで強度を高める算木積みを意識して築造されています。曲輪Aは外周を石垣で囲み北側には内枡形虎口を採用しており、織豊大名である寺澤氏の築城技術によって改修されていることがわかります。

 
      
 この曲輪は、久玉城跡で最も広い面積を持ち、外周は強固な石垣で囲われています。久玉城跡で石垣を使用しているのは、大手口とこの曲輪だけです。
 曲輪西側の高石垣は、長さ約47m高さ約5mに及ぶ立派な高石垣で、江戸時代初頭、唐津藩の寺澤氏が天草を治めていた時に造られた石垣と推定されます。
 北側には、曲輪への入口となる虎口がありますが、虎口を形成する石垣の配置が直角に屈曲しており、「内枡形虎口」と呼ばれるものであることが分かります。 これは敵勢が攻めてくる際に、進軍の勢いをそぐために、あえて通路を折り曲げて造る高度な技術で、九州では加藤清正ら豊臣秀吉の家臣たちが新たに築いた城郭から採用された技術です。このため高石垣と同じ寺澤氏時代の遺構と考えられます。
 この曲輪に残る遺構から、寺澤氏が中世に築かれた久玉城を積極的に新しい技術で改修して利用したことがうかがえますが、その改修はこの曲輪のみに集中して施されているのが特徴です。城の中腹に相当するこの場所が、寺澤氏時代は本丸として機能していたのでしょう・
               平成25年3月 天草市教育委員会


      右が高石垣      


   この場所は標高約47mで、久玉城内の最高所に当たります。平坦部の北端に見える帯状の高まりが土塁です。曲輪の中に敵が侵入するのを防ぐための防壁として、あるいは弓矢や鉄砲などの投射武器で敵方を狙う時に身を隠すため遮蔽物として有効に利用されました。
 曲輪西側の下り坂をしばらく進むと、尾根線を断ち切る堀切【空堀】にたどり着きます。堀切は、屋根伝いに攻め寄せる敵方をはばむ防御施設です。尾根線をV字状にカットするだけの単純な構造ながら、城を守る上でとても効果的であったため、数多くの中世城で使用されました。
 土塁や堀切など、本来の地形に少し手を加えただけの防御遺構は、概ね中世の城郭に伴うものと考えられており、久玉氏や天草氏が城を統治していた頃の遺構と見られます。
 なにげない地形から、中世における合戦の名残を読み取ることができるのです。
               平成25年3月 天草市教育委員会


以下は、2003年2月に制作した分です。
 
 
 米とぎ井戸
 深さ約4m、底部まで石組が施されている。底部は頁岩質の岩盤となっている。夏季の干ばつの際も水がかれることはない。

D石垣
 この部分は、久玉城の入口となっている部分でこの鉤状のD石垣をもつて虎口かためる施設としたものであろう。

家屋定紋跡
 発掘により根石が出土したので、その上に礎石を置き建物のプランを復元したものである。二間×四間程度の萱葺の建物であったと思われる。

御茶井戸
 この井戸水を茶の湯に利用したと伝えられている。

刀研ぎ井戸
 深さ3.75m、底部まで石組が施されている。過去に井戸周辺より、小柄、刀子等が発見されている。

第三郭部
 三つの郭のなかでは最も面積が広く、石垣等の防備体制も完備しており、いわば久玉城の本丸部にあたるところである。城の主要建物が存在したのであろう。萱葺で掘立式の粗末な家屋だったと思われる。

B石垣
 長さ45m、高さ5.1mもあり、久玉浦に面する部分をかため偉容を誇っている。中世の城郭で、これだけの、石垣をもっている城跡は珍しい。49年に石垣の一部を修復したが、その際、裏込石が2m余にもわたって施されていることがわかった。城内各所に見られるこの種の石垣は、野面積と呼ばれる手法によって構築されている。また、石垣の一部に、牡蠣が付着しており、石材は海から運んだことが知られる。

東平場
 城の東側中腹にあり、明らかに削平による平場である。発掘により方形の柱穴跡が確認されているので、当時何らかの城に付随する建物が存在したであろう。

第二郭部
 この部分に建物が存在していたかどうかは未調査のため不明である。三郭とは土橋状の小道によって連結されている。
A石垣
 久玉城の東突端部をかためている石垣で、高さ2.2mを数える。江戸時代末頃、河川工事の採石のため破壊され、現存する石垣は長さ22mにすぎない。

竪堀り
 山の傾斜にそって竪にほった堀というが、当時の場合、自然の地形に若干手を加えて竪堀りとしており、急峻にしてよくその機能を果たしている。

C石垣
 第三郭の東側から北側にかけて、とぎれとぎれに残存する石垣で、崩壊が著しい。その防備かためていたのであろう。

狼煙台推定地
 久玉城北端の標高46mの一番高いところにある。中央部に直径3m深さ10cmの円が掘りこまれており、その真中からは、木炭が検出されている。

蔀土居
 半月形の土居が巡っている。地続きの権現山からの視覚を遮断するためのもので、往時は目隠しのため、蔀植物が植えられていたのであろう。

第一郭部
 久玉城のように、削平された郭が縦に細長く連なる城を連郭式と呼ぶ。この郭は、その第一番目の郭にあたる。