西暦・和暦年号対比表及び主な出来事-1 南北朝以前   西暦・和暦年号対比表及び主な出来事-3 南北朝以後


西暦・和暦年号対比表及び主な出来事-2  南北朝以前

西暦 干支 南朝 北朝 備考
改元 元号 天皇 改元 元号 天皇
1331 辛未 5/5 元弘 1 96 後醍醐 元徳 3 北1 光厳   元弘の変
1332 壬申 元弘 2 9/20 正慶 1   
1333 癸酉 元弘 3 正慶 2   鎌倉幕府滅亡
1334 甲戌 1/29 建武 1 -     建武の新政
1335 乙亥 建武 2 -     
1336 丙子 2/29 延元 1 建武 3 北2 光明   後醍醐天皇吉野へ
 南北朝分裂
1337 丁丑 延元 2 建武 4   
1338 戊寅 延元 3 8/28 暦応 1   足利尊氏室町幕府
1339 己卯 延元 4 97 後村上 暦応 2   
1340 庚辰 4/28 興国 1 暦応 3   
1341 辛巳 興国 2 暦応 4   
1342 壬午 興国 3 4/27 康永 1   
1343 癸未 興国 4 康永 2   
1344 甲申 興国 5 康永 3   
1345 乙酉 興国 6 10/21 貞和 1   
1346 丙戌 12/8 正平 1 貞和 2   
1347 丁亥 正平 2 貞和 3   
1348 戊子 正平 3 貞和 4 北3 崇光   
1349 己丑 正平 4 貞和 5   足利基氏鎌倉公方
1350 庚寅 正平 5 2/27 観応 1   観応の擾乱(~52)
1351 辛卯 正平 6 観応 2   
1352 壬辰 正平 7 9/27 文和 1 北4 後光厳   
1353 癸巳 正平 8 文和 2   
1354 甲午 正平 9 文和 3   
1355 乙未 正平 10 文和 4   
1356 丙申 正平 11 3/28 延文 1   
1357 丁酉 正平 12 延文 2   
1358 戊戌 正平 13 延文 3   
1359 己亥 正平 14 延文 4   
1360 庚子 正平 15 延文 5   
1361 辛丑 正平 16 3/29 康安 1   
1362 壬寅 正平 17 9/23 貞治 1   
1363 癸卯 正平 18 貞治 2   
1364 甲辰 正平 19 貞治 3   
1365 乙巳 正平 20 貞治 4   
1366 丙午 正平 21 貞治 5   
1367 丁未 正平 22 貞治 6   
1368 戊申 正平 23 98 長慶 2/28 応安 1   明建国
1369 己酉 正平 24 応安 2   
1370 庚戌 7/24 建徳 1 応安 3   
1371 辛亥 建徳 2 応安 4 北5 後円融   
1372 壬子 4/1? 文中 1 応安 5   
1373 癸丑 文中 2 応安 6   
1374 甲寅 文中 3 応安 7   
1375 乙卯 5/27 天授 1 2/27 永和 1   
1376 丙辰 天授 2 永和 2   
1377 丁巳 天授 3 永和 3   
1378 戊午 天授 4 永和 4   
1379 己未 天授 5 3/22 康暦 1   
1380 庚申 天授 6 康暦 2   
1381 辛酉 2/10 弘和 1 2/24 永徳 1   
1382 壬戌 弘和 2 永徳 2 北6 後小松   南北朝統合後100代へ
1383 癸亥 弘和 3 99 後亀山 永徳 3   
1384 甲子 4/28 元中 1 2/27 至徳 1   
1385 乙丑 元中 2 至徳 2   
1386 丙寅 元中 3 至徳 3   
1387 丁卯 元中 4 8/23 嘉慶 1   
1388 戊辰 元中 5 嘉慶 2   
1389 己巳 元中 6 2/9 康応 1   
1390 庚午 元中 7 3/26 明徳 1   
1391 辛未 元中 8 明徳 2   

南北朝始まり期   元徳3年5月5日、後醍醐天皇を中心とした倒幕計画が発覚し、それに関わった者たちに対する鎌倉幕府による厳しい追及が行われていた。その最中の8月9日、後醍醐天皇は「元徳」から「元弘」へと改元して鎌倉幕府にも詔書を下したが、幕府はこれを認めず「元徳」を使い続ける(『関城書』裏書)とともに、9月20日には光厳天皇を新たな天皇として即位させた。

元弘2年/元徳4年(1332年)には後醍醐天皇は隠岐への遠流に処され、その間に光厳天皇は正慶に改元した。元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇は隠岐を脱出し幕府を滅ぼした。「正慶」の元号は鎌倉幕府滅亡とともに使われなくなった。

元弘4年1月29日、建武に改元した。
  元弘3年/正慶2年(1333年)、鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇は流刑先の隠岐から京都に復帰して、鎌倉幕府によって擁立された持明院統の光厳天皇の即位とその元号である「正慶」の無効を宣言した(光厳天皇はこれを拒んだが、後醍醐天皇側の軍事力を前になすすべがなかった)。後醍醐天皇は親政を開始して、元弘4年1月29日、武の字が不吉だという周囲の反対を押し切り、勅旨を出し建武に改元した。光武帝が簒奪者王莽を倒し、漢王朝を復興した(後漢)際の元号(建武)にちなんだものである。

その後、武家勢力の離反にあい建武の新政は二年余りで崩壊した。後醍醐天皇は建武3年2月29日に延元に改元した。のちに光明天皇を擁立した北朝方は、建武の元号を使い続け、建武5年8月28日に暦応に改元した。
終わり期   
康応2年3月26日 天変・兵革により 明徳 に改元
元中9年/明徳3年閏10月5日 後亀山天皇譲位により元中の元号を廃する
明徳5年7月5日 応永に改元