目次  上田宜珍(PDF) 天草崩れ

 天草郡高浜村庄屋・産業家・史学者・文学者
 上田宣珍
  うえだよしうず

 

   
 上田宜珍   「天草島鏡」 扉図  上田宜珍の墓(左端、中は妻、右は弟で養子の友三郎)
   
     上田家庄屋屋敷
       役宅の方
       ここで踏絵もなされたのか
 上田家の墓地から高浜の街を眺める
 

上田宣珍は江戸中期の人である。
山口修氏は著書「天草 人と歴史」で、宣珍のことを「高浜の巨星」と評している。

上田宣珍は宝暦5年(1755年)に生まれた。
家は代々高浜村の庄屋であった。
幼いころから聡明で熊本の肥後藩時習館の教授となった薮孤山の門や、本居宣長の弟子らに学んだ。
これらの師により漢学、国学、歌学を学んだ。
これらの学問により、学者として、歌人として大成した。

24歳で庄屋見習い、35歳で庄屋を命じられる。(寛政元年・1789年)
このころの天草は、天変地異(島原大変・肥後迷惑)、異常気象による凶作、人口増、銀主の台頭による貧富の差の拡大などで、百姓は困窮に陥り、百姓一揆や打ちこわしが頻発するという、異常な情勢にあった。
この大変な時期に庄屋として腕を振るい、陶業などの生産向上、さらに文化的な偉業を成した。
正に、巨星というにふさわしい人である。

 ちなみにこのころの出来事及び上田宜珍の年譜をみてみよう。 
  
   宝暦 5 1755 高浜村庄屋上田家に生まれる
          六代傳五右衛門の次男、幼名勘平又は亀五郎、成人名源作、後源太夫、宜珍は号
  宝暦12 1762 高浜村庄屋上田傳五右衛門が同村の鷹巣山で陶石を採掘し、
          皿山窯業所を開始する
  明和 2 1765 水ノ平焼が始まる
  明和 8 1771 平賀源内が海外輸出用に天草陶土で陶器製造を幕府に建議する
  安永 6 1777 長崎奉行が高浜村庄屋上田伝五右衛門に外国輸出用に
          陶器を焼くことを命じられる
  安永 7 1778 高浜村庄屋見習いとなる(24歳)
  安永 8 1779 桜島大噴火、死者1万6千人余に達する
  天明 1 1781 富岡町で蔵元騒動が起きる
  天明 2 1782~天明の大飢饉
  天明 3 1783 浅間山大噴火し、被害40里、死者2万人余に達する
  天明年間   凶作続く
  寛政年間   寛政の改革
  寛政 1 1789 高浜村庄屋となる(35歳)
  寛政 2 1790 牛深の銀主4件の打ちこわし事件
  寛政 4 1792 雲仙眉山崩壊(島原大変・肥後迷惑)天草でも死者343人
  寛政 5 1793 百姓相続方仕法が実施される
         一町田、大江組の百姓100余人、都呂呂に集結
  寛政 6 1794 出米騒動起きる 
  寛政 8 1796 寛政の仕法「天草百姓相続方仕法」施行される
  寛政10 1798 島原雲仙崩れの七周忌に当たり、高浜に漂着した7名の供養塔を建てる
          (残念ながら現存しない)
  寛政12 1800 天草風土考編纂に着手する
  享和 2 1802 天草風土考(叙文菊池の儒者渋江公正)著す 
         宜珍の弟、友三郎今富村の庄屋となる
  享和 3 1803 今富村、崎津村で隠れキリシタン発覚
  文化 1 1804 瀬戸の加藤民吉が宜珍の元に来て、製造秘法を習う
         友三郎、邪宗徒対策に活躍する
         加藤民吉、東向寺和尚の紹介で、製陶工場へ入所する
         隠れキリシタン、これまで内々捜査であったが、遂に表ざたになる。
  文化 2 1805 高浜村にも隠れキリシタン発覚
         大江村、高浜村、﨑津村、今富村4ヶ村合わせ、隠れ信者は5千人余に達す
         高浜村白洲へ密貿易の船乗り上げる。
         高浜浦、亀川浦の袈舸子役5人を引き受け定浦となる
  文化 3 1806 天草崩れに幕府処断-宜珍らの活躍で心得違いという処罰なしに収まる      
  文化 4 1807 高浜村に疱瘡流行、罹病者180余名に及ぶ 宜珍、対策を懸命に行う
         加藤民吉に錦手染付の秘法を伝授する
  文化 5 1808 宜珍ら、隠れキリシタンの検挙に功ありとして、公儀より報償を受ける
         一代大庄屋格に被付、帯刀御免・白銀10枚被下
  文化 6 1809 天草風土考末尾に島原の儒者、松野本枝跋文する          
  文化 7 1810 「陶山永続定書」、「陶山遺訓」を著し、高浜焼の発展繁栄を図る
         伊能忠敬の天草測量に同行(53日間)し、測量術を習う
  文化11 1814 高浜村大火 115軒焼失する 
          庄屋役宅・自宅も焼失
         宜珍、忠敬に習った測量術を駆使し、復興に尽力する
  文化12 1815 大火で焼失した役宅・自宅を再建(今日も現存)
  文化13 1816 大火で焼失した高浜八幡宮新建竣工する
  文政 1 1818 高浜村庄屋を退く
  文政 2 1819 本居太平の門に入り、歌道に精進する(65歳)
  文政 4 1821 伊能忠敬の大日本沿海実測地図完成
          伊能忠敬卒(77)
  文政 6 1823 天草島鏡完成(叙文・本居太平)する
  文政10 1927 頼山陽「日本外史」完成
  文政12 1829 死去する(75歳)
          荒尾山下の上田家累代の墓地に葬られる 戒名 俊倫院謙山良温居士


 <何をなしたか>
 
 高浜焼の開発・製造と陶石の販売

  天草は平地が少なく貧しい島だが、高浜は特にそうであるる。
  ところが、救いの神様はいるもので、高浜には良質な陶石を産した。
  平賀源内をして、天下無双の上品と評した。
  平賀源内自身が天草に窯を開こうとしたぐらいだ。
  だが、どんなに上質な陶石でも、これを利用しなければ、ただの石であり、宝の持ち腐れだ。
  この陶石を利用して新しい産業を興そうとしたのが、宣珍の父、上田伝五右衛門である。
  
  だが、当時の情勢は簡単に新規産業を興すには問題が多すぎた。
  磁器製造という技法・技術は高度すぎ、また、それを受け入れる土壌が伴わなかったのである。
  また、それができたとしても、販売にも交通費や交通網の関係が難点となった。
 
  宣珍は、父が失敗した磁器製造を受け継ぎ、平戸焼の陶工を招いて技術発展に努めた。
  尾張・瀬戸焼の中興の祖といわれる加藤民吉に秘伝を教えたのもこの宣珍である。

  結局、高浜焼きは、完全成功とはいえなかったが、現在も高浜焼が宣珍の子孫によって、さらに数件の窯元が誕生した。
  今日、天草が焼き物の里して発展しているのはやはり、宣珍の功績であろう。

 隠れキリシタン発覚を穏便におさめる

  キリスト教信仰は、特に天草・島原の乱以降、幕府が忌み嫌った宗教であり、信者は基本的に死罪に処せられた。
  天草・島原の乱とその後の施策で天草のキリシタンは絶滅したと一般には信じられていた。
  ところが、乱からおよそ170年後の文化2年(1805)、大江組の大江村、高浜村、今富村、崎津村でキリシタンが多数いることが発覚した。
  最終的にキリシタンは、総人口10,669人の内なんと5205人もいたのだ。人口の5割強である。
  今日この人たちを潜伏キリシタンと称している。
  宣珍もたまがったろうが、幕府もたまがった。
  もちろん宜珍も庄屋としての責に苦慮したことは想像に難くない。
  当時は、天草は島原藩預かりであり、村、島原藩、幕府と三者三様検討した結果、結局宗門心得違いということで、穏便に済ませた。
  当時農民は、単なる生産手段であったろうが、生産手段ゆえに人口の半分を失うことは、村の崩壊に繋がるということ。
  キリシタンといっても、細々と隠れて信仰を続けており、きりしたんというより土俗的宗教に変遷していたとう、今更体制に反抗することはないこと。
  穏便に済まされたことはこれ等の理由あったようだ。
  今富村の庄屋は、故あって宣珍の弟で養子の友三郎が勤めていた。
  この穏便な処置の陰には、宣珍の村人に対する愛と、村を守る庄屋としての立場があったと思う。

 「天草風土考」「天草島鏡」を著す

  上田宜珍を後世の人に不朽の人と知らしめたのは、この「天草島鏡」や日記などの膨大な著作である。
  「天草島鏡」は、「天草風土考」、「天草島廻り長歌」、「天草年表事録」、「天草寺社領の覚え」、その他多数の史資料集からなる。
  これは天草初の天草歴史書であり、後世の人々の天草研究の基本書となった。
  65歳にして、本居太平(太平は本居宣長の弟子)に師事し、歌道を学び歌人としても、すぐれた業績を残している。
  宜珍が教えを受けた恩師
   儒学 
熊本の薮孤山(藩校時習館教授)
   国学 
熊本の高木紫溟(藩校時習館教授)
   国学 
菊池の渋江松石(宇内・公正)  
   歌道 
始め富岡の田中吉郎右衛門忠雄(母方の高叔父)
   歌道 
長じて熊本の長瀬七郎、平田廬
   歌道 
後(文政二年)伊勢の本居大平   等
   ※ 著作、当該著作を纏めた書籍については別記

 伊能忠敬に師事

  伊能忠敬といえば、実地に測量をして、詳細な日本地図を作り上げた人であることは誰でも知っている。
  その伊能忠敬は、53日間にわたり、天草を測量したが、その案内役を宜珍が勤めた。
  だが、ただの案内役ではない。
  絶えず随行し、その測量術を学んだという。
  この旺盛な知識欲には、ただただ頭が下がる。
  後日、高浜村が大火にあったが、その復興に当たって、忠敬から学んだ測量術をもって、整然とした高浜村を再建した。
  

 上田宜珍の著作及び収録図書  (太字は宜珍著作)
 
 
 天草嶋鏡 
   発行者 上田宜珍
   発行日 大正2年12月25日

 天草郡史料 第壹輯
  編 者  天草郡教育会
  発行日 昭和47年9月29日               
 
 天草風土考          歴史書と歌書
  
   他に24項目あるが略
  付録 伊能忠敬の天草測量 

        
 天草島廻り長歌
 天草私領公料由来長歌
 天草御取箇免成行長歌
 天草年表事録
 天草寺領之覚
 天草寺社領御証文之覚
 島原御旧領之砌之覚書
 万治二亥年巳来免合覚書
 遠見番御条目 
 山方役後条目
 寛政七年・・・定免
 文政十年・・・定免村々別
     
  天草郡高浜村庄屋
   上田宜珍日記

  翻刻刊行 天草町教育委員会

 
 
 
   文化十三年子日記
        天草町教育委員会発行の文化十三年判より

       
 寛政五年:[丑日記];寛政七年:[卯日記]
 寛政九年:巳日記
 寛政十年:午日記
 寛政十一年:未日記
 寛政十三年(享和元年):西日記
 享和三年:戌日記
 享和三年:亥日記
 享和四年(文化元年):子日記
 文化二年:丑日記
 文化三年:寅日記
 文化四年:卯日記
 文化五年:辰日記
 文化六年:巳日記
 文化七年:午日記
 文化九年:申日記
 文化十一年:[戌日記]
 文化十二年:亥日記
 文化十三年:[子日記]
 文化十四年:丑日記
 文化十五年(文政元年):寅日記

 「天草郡高濱村庄屋_上田肇五珍日言己」全20巻
上田宣珍が高浜村庄屋の記録として残したのが、寛政政5年(1783)から文化15年(1818)
迄の「天草郡高浜村庄屋 上田宜珍日記」である。
この日記は、庄屋日記というだけに、やや堅苦しくかつ簡便であるが、当時の政治状況や人々
の暮らしを知る貴重な史料である。
原文はとても難解で判読は一般には困難であるが、平田正範氏の手に依り翻刻がなされ、分
かりやすい所として、天草町教育委員会(旧天草郡天草町)|こよって、全20巻が発刊されてい
る。
「文化七年午日記」には、伊能忠敬の天草測量に随行した記録「御測量方御巡廻日記」も収録してある。


     
 上田宜珍伝
   編著 角田政治     
 島乃藻屑 (歌集) 嶋の藻屑
 春、夏、秋、冬、雑、恋、神衹祝に分類され、和歌、漢詩多数が収録されている。
 著者名は、別姓の滋野を用い滋野宜珍としている。
 
 天草風土考
 陶山永続方定書
 陶山遺訓
 上田家代々の略記
 上田宜珍履歴と事業
     

 上田宜珍関係資料

 「天草島鏡」 民友社 大正2年12月20日発行
 「天草近代年譜」 松田唯雄著 図書刊行会 昭和48年9月30日発行
 「上田宜珍傳」 角田政治著 自家版 昭和15年6月30日発行
 「天草 人と歴史」 山口修著 葛西宗誠写真 淡交新社 昭和41年9月18日発行
 「改訂版 天草の歴史」 堀田善久執筆 天草市教育委員会 平成20年3月発行
 「大和心を人問わば 天草幕末史」 北野典夫著 葦書房 1989年10月25日初版発行
 「新 天草学」 熊本日日新聞社編集局編著 熊本日日新聞社 昭和62年12月30日発行
 「街道をゆく 島原半島 天草の諸道」 司馬遼太郎著 朝日新聞社朝日文庫 1987年1月20日初版発行
 「天草陶磁器の歴史研究 -苓州白いダイヤの巧-」 鶴田文史著 天草民報社 2005年10月21日発行
 「図説 天草の歴史」 鶴田文史監修 郷土出版社 2007年12月22日発行
 「天草かくれキリシタン 宗門心得違い始末」 平田正範著 濱崎榮三 濱崎献作編著 サンタマリア館 平成13年3月12日発行

 
「改訂版 天草の歴史」 天草市教育委員会 平成20年3月発行
 

 
など。



上田家








上田家の由来

 上田家(東信濃の時代は滋野)は、大坂城落城後、我が天草高浜の地に隠栖した。
天領天草の代官、鈴木伊兵衛重辰は万冶元年八月(1658年)、上田家第二代勘右衛門に庄屋を命じた。これが庄屋、上田家の租であり、その後代々庄屋が受け継がれた。
 この建物は七代目当主、上田源太夫宣珍の時代、文化十二年(1815年)に建築されたものである。(現在は十五代目である)
 約六百坪の土地に南向きに立てられ、大広間(十七畳)、中之間(十二畳)、居間(十二畳)、表座敷(十二畳)、奥座敷(八畳)、裏座敷(九畳)、離座敷(十二.五畳)など約百畳の広さと、部屋数は、約二十室におよんでいる。
 天井は非常に高く、二間半ほどの高さである。
 家の材料は、シイ、マツなどの雑木を使い、がっしりと構築され、海からの強い西風や台風にはビクともせず長年の風雪に耐えてきた。
 山を背景に斜面を生かした庭園は、天草の中でも第一級のものである。このような旧役宅がそのまま現存しているのは歴史的、建築学的にも実に貴重な文化財である。