松坂屋石本家屋敷


銀主  伊能測量隊と銀主


  其の一 助七

 文化七年(1810)、伊能忠敬が行った天草測量の、牛深での脇宿は、万屋助七宅。俚謡で謡われた銀主の助七である。測量日記では、あまり測量以外の事は書かれていないが、この日の日記には「脇宿 助七(天草二三の富家)」と記している。

 ここで、銀主について学んでみよう。
『本渡市史』によると。
 
 貧しいながらも牧歌的な農耕漁撈によって、天草の民は、原始古代以来自給自足の生活を続けてきた。しかし江戸時代中後期ともなると、貨幣による商品経済が浸透し普及しはじめる。我が国唯一の開港場として賑わう長崎に近い地理的条件が、その傾向に拍車をかけた。このような時代の波に乗って、天草では、酒造、回船、よろず商いなどの商工業者が、雨後の竹の子のように台頭した。潮来出島の節まわしで歌われたという当時の俚謡が、その繁栄ぶりを歌い上げている。

  島で徳者は 大島さまよ 御領じゃ 
    石本勝之丞さま
  島子じゃ 池田屋 三木屋さん
    富岡町では大坂屋
  西に廻れば 牛深の 助七さんの家造りは
    あじな大工の 作りかけ
  海の中まで かけ出して
    夜昼 酒盛りゃ 耐えやせぬ 
    それでも 身上は 栄えます

 そしてこれらの富豪は、みだれ押しの家族を抱えて日々の暮らし向きに困る難儀者や、年貢米上納にもなにかと差し出し、支えた小前百姓たちに銀銭を貸し付け、質に取った田畑の地主としても大きく成長していく。すなわち彼等は、金融資本家的大地主、場合によっては高利貸しとしても、土地の集積をすすめた。元の地主は、新しい地主の下作人に転落するが、天草の過剰人口が労賃単価の下落をもたらし、下作人たちは、高い上米にも甘んじるほかはなかった。(中略)天草では、公儀禁令らに抵触する土地の永代売買さえ行われていた。

(中略)

 天明年間(1780年代)には、御領村の石本勝之丞や小山清四郎らを象徴的な存在とする、いわゆる銀主や徳者が、全郡280余軒を数え、郡中田畑の三分の二を占めるに至る。

(中略)

 天草では、富豪のことを徳者、あるいは銀主と呼んだが、銀主は「ぎんし」と発音されていた。

 この俚謡に登場する小山清四郎(俚謡では大島さまとなっている)方では、伊能忠敬は11月7日に昼食を取っている。後にも記すが、この日の日記には「百姓小山清四郎、家作大によし。苗字免許なり。新蕎麦を出す。同所百姓勝之丞と云者あり。当時、天草島第一の富豪なりと云う」と記している。
 この他、宿泊宅の名前だけでは分からないが、たぶん何軒かの銀主宅に泊まっているかもしれない。
 銀主にも、庶民にとっていい銀主と、悪い銀主がいたようで、この助七銀主は、悪い銀主に属したようだ。というのは、銀主の横暴に耐えかねた村人は、何度も銀主宅や庄屋宅の、打ち毀しや一揆を起こしているが、助七もその例外ではなかった。
 その反面、後に記すが、御領村の大銀主、石本家や小山家はその被害を受けていない。それは、財力形成に天草の民人から収奪したというより、天下国家を相手にしていた事、さらには、天草の民人の危機に対して、度々助力をしていることからである。現在的に言うなら、アメリカの大富豪の寄付と言えなくもない。ただ、これらについては、歴史的検証が必要かもしれないが。

 助七宅への打ち毀しについて、『近代年譜』には、こう記されている。

 天明七年六月 牛深村銀主萬屋助七外四軒に、暴民大勢押しかけ家屋打ち毀し、器物はもとより債権書類一悉く焼却に及ぶ。

 この事件は、伊能測量隊来島の23年前のことである。但しこの助七は、忠敬逗留時の助七の先代であるが、これで身上を潰すことなく、しぶとくさらに発展しているようである。
 
 ただ、当時のことなので、一旦事に当たっては、徹底的な破壊と、人にも危害を加えると思われがちだが、基本的に、家は壊さない、人に危害は加えないといった、ある意味ルールに則った、反抗であったという。その代わり、証文類の棄却は徹底的に行われていたようである。

 考えるに、当時は、身分制度が徹底した時代であり、同じ百姓身分でも、天地ほどの差があった。前出の里謡に注目すると、助七は苗字がない。対して同じような財力を持つ、小山や石本は苗字で謡われている。これは何を意味するかというと、当時農民身分の苗字は公式に名乗れなかったが、為政者(幕府)の許可があれば、名乗ることが出来た。ただ、時代を経ることはあったが。
 その苗字を公式に名乗れるには一括して名乗れるようになった場合と個別がある。前者は大庄屋や庄屋に対しての、苗字御免だ。
 そして、個別には、財力を基に、幕府に貢献したり、民人に対しての財力支援などの貢献に対しての褒美的意味合いがある。

 測量隊は、22日目の11月7日に、御領村に入った。富岡が天草の行政の中心なら、御領は経済の中心と言っていも過言でないくらいに、御領から全国へと経済的進出をしていた。その中心となったのが、銀主小山家と石本家だ。

 
 其の二 小山家

 伊能隊の昼食は、銀主小山清四郎宅。《伊能測量日記》では、「新蕎麦を出」となっているが、《上田宜珍巡回》では、蕎麦の外に盃が出たことが記してある。酒を忠敬が飲んだかどうかは分からないが、さすが測量日記には盃が出たとは書けない。
 この小山家は、国民屋と称し、天草でも石本家と天草でも一二を争う銀主であった。清四郎の祖父清兵衛は、安永七年(1718)に、毎々年凶荒時に救穀米を差し出し、奇特とあって、公儀より褒美銀十枚を下賜され、子孫までの苗字名乗りを許されている。清四郎(1778-1836)は銀主としての仕事だけでなく、正倫社という私塾を開いて子弟に教えている。また、弘化四年(1847)、第二の天草の乱とも呼ばれる、銀主宅や庄屋宅の打ち毀しの大規模な百姓一揆が起きたが、小山家は石本家とともに、度々の救穀米差出などにより、打ち毀しを免れている。子に、後に長崎の外国人居留地を干拓した北野織部、長崎端島炭鉱等を経営したり、グラバー邸 大浦天主堂(国宝)を建設した小山秀之進(秀)がいる。
 
 折角なので、天草人が意外に知らない、近代長崎を作ったともいえる、北野織部と小山秀(英之進)について見てみよう。

 北野織部 
  文化7年(1810)―明治10年(1877)

9歳の時、銀主小山家から、赤崎村庄屋北野記十郎の養子に入る。
弘化4年(1847)弘化一揆で役宅荒される。
安政6年(1859)大浦御築方御用を仰せつかる。
万延元年(1860)同 完成。
   埋立面積  19977坪(約659ha)
   費  用  1万4千両

 ◇解説
 幕末、鎖国を祖法として外国との門を閉ざしていた日本だったが、西洋列国の圧力によって、遂に開港を余儀なくされた。
 安政5年(1858)、日米修好通商条約調印。
 長崎港が開港される。そのため多くの外国人が入りこむが、長崎は矮小の平地しかなく、外国人の居留地となる場所がなかった。そこで、幕府は外国人の居留地要求も強く、その地を海の埋立で造成しようとする。
 しかし、その埋立工事を引受ける者は誰もいない。そんななか、天草の一庄屋に過ぎない北野織部が、埋立を申し出、難工事に着工する。
 天草島は、昔から埋立が進められ、技術が進歩していたことも、埋立を引受けた理由であった。
 海底地盤軟弱のため、度重なる石垣崩壊や台風などで、工事は困難を極めるが、人夫として真面目な働き者の天草人を使ったのが幸いしたこともあり、遂に完成する。
 また、石垣の石は天草石を運ぶ。 
 これによって、近代長崎は始まったといっても過言ではない。


 小山秀之進   北野織部の実弟

文政11年(1828)―明治31年(1898)
文久3年(1863)前後 棟梁としてグラバー邸建設後、オランダ坂石畳を天草石で建設。
元冶元年(1864) 大浦天主堂
  (国宝・洋式建築としては日本最古)その他、リンガー邸、オルト邸など手がける。
明治元年(1868) グラバーと高島炭鉱開発に乗り出す。
明治8年(1875) 端島炭鉱開発に着手。

◇解説
 北野織部が土木士ならば秀之進は建築士と言えよう。織部が基礎を築き、秀之進が花を咲かせたともいえる。
 いずれにしても、長崎と比べると僻村・貧島の天草の二人が、誰も成し得なかった、今日の長崎の父とも言える偉業を行ったことは、評価しても評価しつくえないことだと思うが、歴史は彼らの偉業を讃えていない。
 歴史再発見というが、彼ら二人に光を当てることこそ、真の歴史発見になるだろう。

◇資料 
 『天草海外発展史 Ⅰ』 北野典夫著 葦書房



其の三 石本家・石本平兵衛

 
 
 上写真 大名屋敷かと見間違うほどの石垣を持つ石本家屋敷 
 下写真 石本平兵衛の墓
        五和町御領 


 石本家は日本の西海果ての僻村にあって、一時、三井・住友・鴻池と並ぶ日本の大富豪となり、幕府御用達まで昇りつめた。
 石本家最盛期の石本勝之丞平兵衛はその才により商業資本家として屈指の財力を築く。
 しかし、当時の多くの銀主と違い決して庶民を踏み倒して伸したのではない。逆に困窮する農民庶民に数度の多額の援助を行う。その功により、支配者から何度も褒美を賜る。勿論、弘化一揆でも、打ち毀しの対象外・
 苗字御免、帯刀御免更に幕府の御用達になるなど、日の出の勢いであったが、出る杭は打たれる。
 高嶋秋帆を後援した廉、で石本平兵衛・勝之丞の父子は水野忠邦・鳥居耀蔵によって陥れられ捕えられ獄死する。
 哀れかな、流石の豪商石本家も没落、今はただ、豪壮な石垣のみが当時の勢いを象徴するかのように遺すのみ。
以下、石本家元屋敷にある石本平兵衛顕彰碑の碑文をかりて説明に替えたい。

 翁(石本平兵衛)は、天明七年(1787)御領村(現五和町)旧家石本家の長男として生まれ、幼少より神童の誉れ高く、少年時代は長崎に学び、語学、経済、財政、貿易等について学問を修め、その才覚はますます磨かれて卓抜、十一代将軍家斉の時世に豪商松坂屋としてこの地より世に出た。
 翁は、大いに手腕を発揮して、わが国海外貿易業界の雄となり、また国内企業ならびに金融大資本家としても、当時の三井、住友、鴻池等の三大財閥と比肩するに至った。 
 翁は、その財政手腕が認められ、天保五年(1834)旧二月二四日、幕府勘定所御用達を拝命、大名なみの待遇を受けた。 
 従来石本家は、九州各藩の財政顧問的地位にあり、年貢米その他産物の専売権を保有をもって巨大な経済力を形成し、全国大名への貸付金は常に百万両を超えたという。
 翁による難民救済の実績は、枚挙にいとまはないが、特に寛政年間から続いた天草地方の大飢饉は、文化天保の時代にも及び、農民の困窮はその極に達した。
 この窮状をみた翁は、文化二年(1805)被災地に対し、籾2百石、丁銭三千貫を贈り、次いで文化八年より天保五年までの二十二年間に、天草を始め、長崎、宇佐、江戸等の各地に贈った義捐救済米は実に一万一千石以上、丁銭一万八千貫余(現在換算金約二十二億円)を贈るなど、巨額の私財を投じて、救世済民に精魂を傾けている。

翁は 天保十四年(1843)旧三月二十八日病を得て五十七歳の生涯を閉じた。



 ◇参考資料 
  『石本平兵衛傳』白倉忠明 自家本
  『天草の豪商 石本平兵衛』河村哲夫 藤原書店
         など


 〈余話〉

 江戸時代は、約260年続いた。世紀でいうと、2世紀半。明治維新から今日(2016年)まで、まだ130年しか経っていない。要するにその倍の年数が、江戸時代であったということだ。
 その間、かつて戦国時代といわれる内戦の時代が、嘘のような平和が続いた。勿論、人々が豊か、平和に暮らしたわけでないが、それでも戦争を経験したことが無い時代が、こうも長くも続いたことは、世界史的にも稀有なことだともいわれている。