歴史索引へ


古搭・板碑

   亀川古寺古塔群 天草市亀場町亀川 
   伊賀倉権現古塔群 天草市楠浦町
  五輪の塔 天草市新和町大宮地
  南梵字と礎石 天草市本渡町 染岳霊場
  立浦の板碑 天草市楠浦町立浦
  尾越の板碑 天草市船の尾町 
  下浦丸田薬師堂の梵字板碑 天草市下浦町戸ノ崎
  大権寺塔群 天草市倉岳町棚底
  澄泉寺跡 五輪の塔群 上天草市松島町教良木 
  山浦の磨崖碑 天草市栖本町山浦
  小が倉観音磨崖碑 天草市栖本町河内 
  姫様の墓 天草市二浦町亀浦姫野河内 

亀川古寺古塔群 天草市亀場町亀川 旧亀川中学校上

   天草市指定文化財  

 亀川古寺古塔群


  指定年月日 昭和33年5月1日
  管理者 原田会

 五輪塔6基、宝筐印塔1基があり現在地の100m南方、古寺と呼ばれる畑地に散在していたものをここに移し組み立てたものである。
 鎌倉時代この付近には天草氏の菩提寺である来迎寺が建てられていたが正和2年(1313)領地をめぐり争っていた志岐氏の本戸(本渡)侵入のおり焼き払われ廃寺となった。
 現在は古寺という地名と7基の古塔だけが残っている。

       天草市教育委員会
 
 
 

伊賀倉権現古塔群   天草市楠浦町

 
  天草市指定文化財

 伊賀倉権現古塔群

  指定年月日  昭和50年6月13日

 ここに集められている古塔群は、その大半が五輪塔で一部宝篋印塔が見られる。大きさは比較的小型で、完成形でも50センチ程度のものがほとんどである。装飾性は少なく、いずれも単純な形をしていることから、室町時代頃に造られたものと思われる。中世においては、こうした五輪塔や宝篋印塔は有力者の供養塔として盛んに作られてきた。
 天草各地に五輪塔が残されているが、一ヵ所に50基以上の古塔群が集積しているところは珍しい。他に天草では倉岳町棚底の大権寺跡などが知られているのみである。また、この近辺には「寺中」という地名が残っており、中世には寺院があったと考えられる。おそらくは、この辺り一帯を当時支配していた有力者の菩提寺が存在したと推測される。

  天草市教育委員会・天草市楠浦地区振興会
 

大宮地五輪塔 天草市新和町大宮地

   天草市指定文化財

 大宮地五輪塔

 指定年月 昭和50年2月18日

 五輪塔は加工された5つの石の組み合わせで構成され、万物の五大要素をあらわすという中世の石塔です。古来、供養塔や墓標として用いられました。この大宮地五輪塔は、その形式から概ね鎌倉時代にかけてのもので、特に大きなものは高さが140㎝ほどで、天草でも最古の部類に入ります。中世において、民衆は墓に墓標をおく習慣はなく、これらは必然的に付近一帯を支配していた宮地氏のものと考えられます。宮地氏は、天草五人衆天草氏の一族で、現在の新和町大宮地、小宮地、宮地浦を中心に勢力を持っていたとされます。また一時は志岐氏と領地争いをしたことでも知られています。

  平成22年3月  天草市教育委員会 
 
  [ 参考 新和町当時の説明板] 

 新和町指定文化財
 
五輪の塔

 新和町は鎌倉時代に菊地氏の一族宮地弥次郎の領有で、その子孫代々宮地城にあって約200年間統治している。その宮地氏の菩提寺と考えられる大宮地西光寺跡の境内と、それより少し離れた山中に31基の五輪塔群がある。時代は鎌倉期のもの2基、あとは室町期に至る形式のもので、宮地氏ゆかりの五輪塔にまちがいないと云われており、昭和502月町文化財に指定、保存されている。


南梵字板碑と礎石 天草市本渡町 染岳霊場

      本渡市指定文化財
 南梵字板碑と礎石

 指定年月日 昭和
49319
 管理者   中村二人

 もと沖の浜、新地の溝の中にあったもので円の直径
50cm厚さ12cmである。一種の供養碑で中央の5つの梵字は、□()()()()()の五大をあらわし周囲の25字は光明真言の経文の一部を示し、これによって菩提を得んとするものである。造刻の時代は明らかでないが中世のものであろう。
 
 本渡市教育委員会
 

 ※ 《註》□は記号、写真参照
 ※ 説明板は本渡市のまま(2015年12月28日確認)
 
 以下は、『天草郷土史考』山腰雅春著 より転記

 供養塔
 円盤の中央に真言五仏梵字を彫り、周囲に光明真言灌頂陀羅の梵字を彫る。台座の梵字は中央が不動明王、右がコンガラ、左がセイタカ童子。
 礎石
 梵字は巨大にして多聞天皇の種字、城郭や寺院の礎石にしたものと判明。多聞天皇なれば東方の柱の礎石ならんとの事。
 この二つは、十万山中に天草氏の城砦が築かれていた証拠となり、しかも石質古く前期天草氏時代、少なくとも6、7百年の星霜を経たものと思われる。


立浦の板碑 天草市楠浦町立浦

   天草市指定文化財 
 
 
立浦の板碑

  指定年月日 昭和49年3月19日
  管理者   立浦区

 板碑の上部中央に阿弥陀如来像、下部中央に銘文、その両側には碑の建立者である夫婦と思われる男女の法名と「逆修」の文字が刻まれている。逆修とは生きているうちに自らの余生の安寧と死後の冥福を祈って仏事を行うことを指し、そのためにこの碑を建立したと考えられる。銘文は一部欠けているが『金剛般若経』、『法華経薬草喩品』からとった経文と考えられる。
 板碑が建立されたのは、天文8年(1539)、戦国時代である。これは天草にキリスト教が伝来する直前のことであり、この立浦の板碑は、今に残る中世の仏教関連遺跡として大変貴重である。また、この近辺は「寺山」と呼ばれ、五輪塔の残欠も見られることから、中世頃には寺院があったものと考えられる。


 天草市教育委員会・天草市楠浦地区振興会

 
 
 
 [参考 本渡市当時の説明板] 

 本渡市指定文化財
 立浦の板碑


 指定年月日 昭和49年3月19日
 管理者   楠浦町立浦西区

 このあたりは寺山と呼ばれ古い寺があったところである。この板碑は信心深い老夫婦が存命中受戒して死後の安楽を願ったもので、中央上部に阿弥陀如来坐蔵、その下に碑文、右に男、左に女の戒名が刻んである。碑文は金剛般若経からとり、建立は天文8年(1539)2月になっている。

 本渡市教育委員会

尾越の板碑 天草市舟之尾町 衹園橋近く 衹園社裏

   天草市指定文化財 

  尾越の板碑

  指定年月日 昭和335月1日
  管理者 船之尾地区

 当時、志岐氏に本渡を追われていた天草氏は、父祖の故地本戸を回復せんものと享禄3年(1530)これを阻む志岐氏と町山口川を挟んで対戦、遂に本戸城を奪回した。その一周年に当り、本戸洞慶寺の桑牧は、百余人の僧を集めて大供養を行った。その供養碑がこれである。

  天草市教育委員会 

※ 刻字・画は摩耗して読めないが、上中万五郎氏の解読を下に掲げた。
 
 解読・写画

  上中万五郎氏提供 
           

下浦丸田薬師堂の梵字板碑   天草市下浦町戸ノ崎

   
 本渡市指定文化財

 下浦丸田薬師堂の梵字板碑

 底辺60センチメートル、上辺60センチメートル、厚さ50センチメートル、梯形型の一種の供養塔である。中央の5字は胎蔵界における大日如来独特の真言で五大といって5つの原素のことをあらわし周囲の25文字は光明真言の経文である。死者の菩提を弔い、その仏果を得んことを祈ったものであろう。
 もと、堂下の海岸の波打ちぎわにあったものという。

 本渡市教育委員会

 ※2015.12.28現在、本渡市のままとなっている。
 
 
   

大権寺古塔群と大権寺遺跡  天草市倉岳町棚底

 


 ここ倉岳町字大権寺は「寺」の地名を持つことから、古くから「棚底城」の菩提寺 といわれてきました。それを物語るように、五輪塔や宝塔などの中世石塔が残っています。石塔は完存するものはなくすべて残欠ですが、その部材数は300にも及ぶほど膨大で、文字通り大きな勢力を持った寺院が存在した可能性があります。そのうちに南北朝~室町時代の年号を刻むものもあり、特に「延文三年」(1358)銘の紀年名は天草の石塔で最古のものであります。
 菩提寺伝承と石塔の存在から、平成18~20年にかけて天草市教育委員会により発掘調査が行われ、中世寺院に関連すると考えられる石段遺構や石積遺構が検出されました。この他に青磁、白磁、土師器片など主に15世紀頃の生活遺物も発見され、大権寺遺跡と呼ばれるようになりました。国指定史跡「棚底城跡」は東に約400m離れていますが、同時代に存在したことが発掘調査によって明らかになり、両者には強い結びつきがあったとかんがえられます。
 


澄泉寺跡 五輪の塔群  上天草市松島町教良木(教良木小学校裏)


澄泉寺跡五輪の塔群

 この五輪の塔群は、昭和48年8月に菅原神社の裏手(字・城山下)で上段一列、下段二列の状態で総数六十数基(一部倒壊等で確定できず)を発見し、昭和50年に教良木小学校の背後地を整備して移設されました。この「五輪の塔群」の中で、一つの石で出来た〝一石五輪の塔〟全国でも珍しいものです。
 平安時代の末期頃から造られた五輪(地・水・火・風・空)の塔は、密教で万物を生成する五種を形に表しています。
菅原神社は中世(南北朝・室町)に築かれた山城(教良木城)の城郭内に建てられていた澄泉寺跡地であり、この一族の供養塔であると推定されます。

市指定・・昭和58年3月20日  上天草教育委員会