鈴木重成関係史跡 寺社領 定浦制度 古刹・古社


鈴木重成 の事績と考察


  
 鈴木重成 天草代官就任まで

 鈴木重成は、天正十六年(1588)、三河国加茂郡足助庄則定(愛知県)に生れた。父は重次、徳川に仕えていた。足助は、現在豊田市に編入されているが、紅葉が素晴らしい香嵐渓がある。
 時は豊臣政権絶頂期で、徳川家康が関東に移封されたのは、翌々年の天正十八年のことである。したがって、鈴木家も下総(千葉県)に移住する。

 重成は、通称を三郎九郎と称した。
 重成には、長兄重三(正三)を始め3人の男子の兄弟がいた。重成は三子であった。後に、天草代官となった重成は、仏教普及に正三の助力を仰ぐことになるが、正三とは9歳違いであった。
 関東に移住して10年後、関ヶ原の戦いが起きた。重成12歳の時である。重成の父、重次はこの戦いに参戦している。この戦いに勝利した家康は、重次に加茂郡の内五百石を与えた。また、21歳の長兄重三は、本多正信に従い、この戦いに参戦するも、信州上田で真田勢に足止めされ、関ヶ原の戦いには、直接は参戦していない。
 
 そして、慶長十九年(1614)大坂の陣が起き、鈴木4兄弟は揃って従軍する。
 戦後、家康は4兄弟に加茂郡の内それぞれ二百石を与えた。重成に与えられたのは、御蔵村、摺村の二百石であった。冬の陣の後、豊臣が滅亡する大坂夏の陣が起きるが、重成はこの戦いには参戦していないようだが、この年に、家康に仕えることになる。
 翌元和二年、家康が死去し、重成は秀忠に仕える。そのため江戸の駿河台に移る。
 早くから禅を学んでいた兄重三は、元和六年、出家し仏門に入り正三を名乗る。41歳であった。この正三の出家により、重成が鈴木を継ぐことになる。
 天草では、勿論代官重成が有名であるが、全国的には、正三はただの禅僧としてではなく、思想家としても著名である。

 重成が天草代官に任ぜられたのは、寛永十八年(1641)で、死去する承応二年(1653)まで12年間代官職を務めた。
 以下それまでの事績を箇条書きにまとめてみよう。

 寛永十四年(1637)、天草島原の乱に松平伊豆守のもとに鉄砲奉行として従軍、武功をたてる。
 翌十五年、乱が終結すると、松平伊豆守に命じられ、この乱による島原の荒廃立て直しのため、島原に残ってその復興策を検討する。
 さらに翌年には、天草の復興策検討のため天草来島。これらは、重成の行政手腕を、松平伊豆が高く買っていた証左である、重成は、見事その任を全うすることになる。これは、残された天草島民にとっても、最大の幸せと言うべきであろう。
 寛永十八年(1641)、天草は寺沢氏から召し上げられ、山崎家治に与えられた。しかし、家治は、復興策よりも城普請に一生懸命で、政治にまで手が回らなかった。一介の大名に天草復興は荷が重かったこともあり、天草は天領となる。
 その初代代官に鈴木重成が任ぜられる事は、乱後、島原天草に残り、復興策を建策した有能を認められ、当然のことであった。
 
 さて、鈴木重成没後360余年後の今日でも、島民から神として崇められているが、果たして、重成の事績は、実際はいかほどのものであったか。
 というのは、がんじがらめの徳川封建制度下で、地方代官にどれほどの権限があったのだろうかという疑問があるからだ。
 よくテレビドラマなどで、悪代官なる者が登場する。それは、地元の悪徳商人と手を組んで、自らの利を得るために、悪政を行うというもの。
 確かに、何時の世も、そういう輩はいるものだが、果たして数多かったものか疑問がある。厳しいはずの徳川政権下で、そのようなものはドラマだけの世界と思う。
 それを逆に言うと、代官の一存で、年貢を軽減したりすることができたのか。それは不可能なことだと思う。
 ただ、言えることは、その献策をすることは可能であろう。ただし、それが受け入れられるという保証はない。
 ただその献策を行うか否かが、代官の質になる。
 鈴木重成は、天草代官以前に、そのような職(上方代官)に就いていたこともあり、庶民の厳しい暮らしを知っていたことで、亡所と化した天草の代官として、天が与えた配材と言えるかもしれない。
 もし、天草の初代代官が鈴木重成でなく、悪徳でなくても凡庸の代官であったら、天草史は変わっていたかもしれない。
 つまり、現在でもそうだが、行政規律がある中で、一地方行政官のできることは限られている。しかし、その限られた中でも、その地方から慕われる行政官と、その逆の行政官があることは事実だ。
 それは、中央の方針に逆らう事でも献策したり、時によっては逆らったりすることも、地方行政官の資質であろう。
 鈴木重成が、後世の人々に神としてまで崇められるのは、決して時の幕府施政に反して、独自に天草の施策を実行したのではなく、その献策への努力があったからだと思う。
 しかし、現実的に一地方代官の進言・献策を、幕府が了と受け入れることは、殆ど不可能に近いことである。それでも事件後しばらく減免が実施されたり、石高半減?が実現したり、寺社を建立するなど、天草復興が着実に実現したのは、鈴木重成のバックに時の幕府の権威者、すなわち天草復興を重成に託した、松平伊豆守がいてこそであろう。伊豆守には、幕府を震撼させた〝天草島原一揆〟に自ら指揮を取り、たかが百姓と侮れない民衆の力を、身を以て経験した故であろう。

 現実的に、重成を神として称える根拠として、石高半減のために、身を挺して(自刃して幕府に嘆願した)ためと言われているが、その確かな史料はなく、後世の人の創作といえなくもない。ただ、史実として、石高見直しが実現したことは事実である。
 その辺りの事を、はなはだ力不足ながら、考えてみたい。

 そこで、鈴木重成が、後の世に神として祀られるほどの事績があったのかどうか、考察してみよう。
 その考察に当たって大事なことは、現在でも神として祀られている重成を、〝重成〟と呼び捨てにすることに、抵抗を持つ人も多いだろう。だが歴史的探求に当たっては、そういった先入観は捨てなければならない。


 
亡所開発仕置

 鈴木重成は寛永十八年九月十九日、天草に初代代官として赴任した。重成は、富岡城には入らず、富岡船津に代官所(陣屋)を構えた。これは、代官は民政官であったことによる。幕府は武を熊本藩細川氏にゆだね、城には細川藩士が詰めた。
 代官所の役人は以外に少なく、十数人だったようである。それは、次項に述べるように、村の行政組織の整備で、現在でいう地方自治の確立により、中央(代官所)の役人は少なくても機能した。


 
行政基盤の整備と移民策の導入

 重成がまず取り掛かったのは、行政組織つまり村の再編成である。天草を10組(志岐・井手・御領・本戸・栖本・教良木(後に大矢野)・砥岐 ・久玉・一町田・大江)に分け、その組の下に従来あった120余の村を86カ村に編成。組には大庄屋、村には庄屋を配置。さらに、各村に年寄、百姓代を置き、各村の運営を行わせると同時に、代官所との連絡調整がスムーズに行われるようにした。
 また、富岡には町制を敷き、細かく町割りを行い、町年寄を配置した。
 この時の村割が、ほとんど現在もそっくりそのまま残っている。

 また復興の最大の問題は、極端な人口減により、農産が出来ないことであった。いくら土地があっても、農産が出来ないと、年貢が取れないし、その前に復興ができない。そのため、幕府は移民政策を図り、西南各地の大名等に、一万石あたり、1戸の割合で、移民を割り当てた。
 その結果、人口は増え、乱後20年には1万6千人に回復したようだ。移民策はその後も続けられた。したがって、現在の天草はアメリカのように移民の島ということが言えよう。


 
年貢の軽減策

 庄屋文書等によると、当面、年貢の賦課率を極度に低減している。もちろん、代官一存で出来ることではなく、幕府の政策ではあった事は明らかだ。
 内容については、「本渡市史」に詳しく記されている。


 
遠見番と烽火場の設置

 外国船の見張りとその伝達を長崎奉行所へのスムーズに行うために、富岡、大江﨑、魚貫﨑の三カ所に烽火場を設置し、地役人を採用し遠見番を配置した。これの烽火場はのちに、﨑津、牛深に増設された。
もっとも遠見番所設置は、重成の施策というより、幕府の意向によるものであった。
 ただ、民衆の立場でいえば、迷惑な施策である。
 遠見番所には地役人が当たったとはいえ、現実的には、番所の当該住民が駆り出されており、それも相当の負担があった様である。
 事例として、重成からずい分との事ではあるが、いかに住民負担が大きかったかを、「上田宜珍庄屋日記」に詳しく記されている。
 もっとも、宜珍は、庄屋と言う身分的にも、例え不満があってもそれを表明することはできなかったが。
 今でも、なかなか
 

 
定浦制度

 定浦制度とは、現代風にいえば、漁業権制度と言えよう。
その定浦制度の目的は、特定の浦に漁業権を認める代わりに、その規模に応じて公用に用いる舸子の確保にあった。各定浦を統率する弁指を置き、裏の規模に応じて、舸子役の人数を定めた。
ただし、この制度を確立したのは、重辰であった。重成が定めた7ヵ浦を17ヵ浦とし、舸子役299人を配置した。
 

 寺社の建立

 重成は、キリシタンに代わり、各地に寺社の創建を行い、民心の安定のため、仏教の普及に力を尽くした。
 そのために強力な助っ人となったのが、正三和尚である。正三は重成の実兄で、旗本であったが、考えるところあり、出家をして仏教の道に入った。厳しい修行を重ねた結果、全国的にも有数な名僧となった。それは、彼の著書や弟子が著した正三の言行録などからうかがうことが出来る。もっとも筆者のような凡人には、到底理解できないものであるが。
 正三はその期待に応え、重成に乞われ来島し、3年間の在島期間の間に、仏教布教の基礎を築いた。
 その一が、長崎皓台寺の住職一庭融頓、山口瑠璃光寺の中華珪法の両巨僧を招いたことである。彼らは、重成が建立した多くの寺の開山者となった。
 重成は、曹洞宗10ヵ寺、浄土宗6ヵ寺を創建した。そして、幕府に具申して三百石の寺社領をそれぞれの寺社に与えた。
 特に、本村の東向寺、志岐村の国照寺、栖本馬場村の円性寺、大江村の崇円寺は四ヵ本寺と称する。

 ここで、疑問が浮かぶのが、この膨大な寺社を創建するにあたっての資金は、どうして得たのかということ。
 本来ならば、檀徒からの寄付、あるいは創建者の資金によるものであろうが、もちろん創建時に檀徒は無し、重成も一代官で財力はない。
 したがって、その建築費用は幕府に出させた。というより、キリシタン対策として、幕命であったかもしれない。また、建築に対して、技術者は天草で調達したことは考えられず、全国から呼び寄せた。そして、その建築労役はどうしたのだろうか。封建社会の事、通常は農民を無償で使うのもありかと思うが、おそらく正当な賃金を支払って、建設したものと考える。つまり、この建設が公共事業的性格をも合わせ持っていたものと推察する。
 それは、重成を尊敬する農民の姿勢を見ても明らかだ。
 この建設に対する、こうした疑問に答えてくれる史料は存在しないのだろうか。
 重成は、建築費だけでなく、維持費も幕府に具申して、各寺に提供している。それが寺社領である。寺社領の総石高は三〇〇石である。この三〇〇石を金銭に換算するといくらになるのだろうか。当時は、一石、一反、一人と言われていたようである。つまり、一石の生産に要する田の面積は一反(約10アール)で、当時の人は年間1石(約180リットル) 米を消費したといわれる。つまり寺社領として、300反(30町歩)の田を寺社に提供した。その寺社領になったところの地名が、本村の東向寺の寺領であったところの地名が、「寺領」として現在も残っている。
 田地の少ない天草で、30町歩といえばかなりの面積で、いかに寺社を優遇したか分かる。別の見方をすれば、それだけ寺社の役目を重く見ていたということが出来よう。
 ただし、この寺領を与えたのは、禅宗、浄土宗で、浄土真宗(真宗・一向宗)には与えていない。これを差別といえば差別だろう。 一向宗は、かつて徳川家康に対峙した経緯やその教えなどから、徳川幕府(武家政権)の意に沿わない宗派であったようだ。肥後相良藩では、この一向宗をキリスト教同様禁じていたことからも分かる。寺社領を与えない代わりに、在家法談は自由であったという。つまり自分の手で寺を維持していく上には、なんにも構わないということであろうか。
 真宗寺は、1600年代には本願寺派(西)22寺、東本願寺派7寺の29寺が存在していた。
(参照・『天草寺院・宮社文化史料図解輯』)

 当時の寺は、単なる宗教施設としてではなく、キリシタン取締りの寺請制度、村人の管理など一部役場的な役目を果たしていた。往来手形の発行も寺が行っていた。


 
重成建立の寺社

 禅宗寺院

  円通寺 志岐村    寛永20年(1643) 
  国照寺 志岐村    正保元年(1644) 一庭融頓 45石
  瑞林寺 富岡町    正保元年(1644) 一庭融頓 15石
  明徳寺 本戸馬場村  正保元年(1644) 中華珪法 10石
  芳證寺 御領村    正保二年(1945) 中華珪法 12石
  江月院 大江村    正保2年(1945) 一庭融頓 10石
  遍照院 大矢野上村  正保3年(1946) 一庭融頓 10石
  正覚寺 上津浦村   正保3年(1946) 中華珪法 10石
  観音寺 荒河内村   正保4年(1947) 中華珪法 10石
  東向寺 本村     慶安元年(1648) 中華珪法 50石
  明栄寺 小宮地村   承応2年(1653) 中華珪法 2石
  金性寺 教良木村   承応2年(1653) 中華珪法 3石


 浄土宗寺院

  寿覚院 富岡町    寛永19年(1642) 応誉徹秀 13石
  円性寺 湯船原村   正保2年(1645) 光誉純慶 30石
  崇円寺 一町田村   正保2年(1645) 伝誉通風 30石
  九品寺 大浦村    正保2年(1645) 信誉教我 5石
  江岸寺 棚底村    正保3年(1646) 大誉團徹 10石
  無量寺 久玉村    慶安元年(1648) 岳誉芦吟 10石
  信福寺 下田村    慶安元年(1648) 正誉法雲 5石

 真言宗寺院

  阿弥陀寺 佐伊津村  正保2年(1645)   再興 3石

 宮社

  飛竜宮 富岡町       10石
  諏訪宮 湯船原村      7石


 
寺の特徴

 百華山 円通寺 志岐村
 円通寺は、重成が最初に創建した寺で、天草郡中の祈祷祈願寺である。一仏二十五菩薩像はここに安置されていたが建屋老朽化により取り壊され、現在は国照寺に安置されている。国照寺の末寺として、寺領は与えられていない。

 寺社の中で、寺領も権威も第一といわれる東向寺について、やや詳しく見てみよう。

 松栄山 東向寺  本村 四カ本寺の一
 東向寺は山号を松栄山というように、徳川家の菩提寺として建てられたといわれている。松が栄えるとは、徳川の氏が松平であることから付けられたものであろうか。
 寺領は五十石、つまり寺領総石高の五分の一を占めるところからも、島内の最高権威を持っていたといえる。寺域(敷地)はかつての本町中学校まで及び、現在の倍以上の広さがあったようだ。
 東向寺領は、現在の本町にあったが、文化八年(1811)の東向寺文書によると、寺領のある村の、本村、新休村、下河内村(現本町)の人高(人口)は、1333人で、本村とは別立てで寺領人高は392人となっている。総人口の約30パーセントに当たるところから、その大さがわかる。
 また、その格式の高さからか、歴代の住職は高徳の人が多い。開山の中華珪法、13世瑞岡珍牛、15世上藍天中は特に有名だ。歴代住職の墓は、天草市の指定文化財になっている。

 また志岐村の国照寺も四カ本寺の一で、四十五石と東向寺に継ぐ寺領を与えられている。
 この寺の山号万松山と松の字が入っており、その権威を高めているかのようだ。後に作られた、寺裏の日本庭園は見事だ。

 四カ本では、別に、栖本・湯船原村の仏日山 円性寺、河浦・一町田村の天草山 崇円寺がある。先の東向寺、国照寺が禅宗寺に対して、こちらは浄土宗寺である。

 また、特徴ある寺としては、本戸馬場村の向陽山 明徳寺がある。
 この寺の特徴は、石段と楼門であろう。石段の高さもさることながら、その石段に十字が刻まれているともいわれ(寺に登るため十字を踏む)、また楼門に掲げられている双聯の片側には「将家賢臣革弊政芟除耶蘇之邪教」と、キリシタン禁制を特に意識している。


「鈴木さま」一考察

 一地方の官僚であった人が神となる例は、全国史的に見てもほとんどないのではないだろうか。そのまれなる例の神となったのが、草島原の乱後天草の復興を、幕府からゆだねられた、天草初代代官鈴木重成である。
 それではなぜ、鈴木重成は、神として現在なお、島民からあがめられているのだろうか。

 根強い説としては、というより真実として伝えられているのは。
 乱を招いた一因の過重な年貢。その元となる石高を死を賭して半減したことにあるという。

 重成が「鈴木さま」と呼ばれる神となったことに対して、「「鈴木さま」建立に関する伝承と課題」という小論が、『天草代官 鈴木重成 鈴木重辰関係史料集』『鈴木重成とその周辺』で平田豊弘氏により、述べられているので、一部それを参照して考えてみたい。 天草島内には、32ヵ所に鈴木重成を祀る「鈴木さま」があるという。残念ながら、筆者はその確認はできていない。

 この「鈴木さま」には、重成だけでなく、二代目代官重辰、正三和尚も共に「鈴木三神」として祀られているのが特徴である。重辰は、兄正三の実子で重成の養子となった。重成没後、二代目天草代官に任ぜられ、重成の意志を継ぎ、善政を敷いたといわれる。所謂石高半減は、重辰の代に実現している。正三は、重成の兄であり、旗本であったが、思う処あり出家し仏道を学び、名の知られた名僧となった。

 さて、石高半減問題である。
 これまでの石高は、乱当時の天草の支配者であった、唐津藩主寺沢時代から、天草郡は四万二千石と言われているが、実際は三万七千石であったようだ。それは、重辰の代に、万治検地と言われる検地で、〝石高半減〟が先入観により、後世に、二万千石となったため、それから逆算して四万二千石となったようである。この石高算定は、難しいことである。それは、米を主として生産高を基礎しているが、この米の生産については、同じように栽培をしたとしても、年により、環境でバラつきがある。
 現に、実際に稲作をしている筆者が、痛感しているところである。

 それでは、この石高半減(石高の減少)は、天草の島民にどんな影響を与えたのであろうか。一般的に考えると、石高が年貢の基準とされているので、半石になったということは、年貢が半分になり、農民の負担が軽減されたというもの。しかし、研究によると、実際は、年貢が増えた場合もあり、減った場合でも、大幅に軽減されたことはなかったようだ。

 万治検地の実施は、石高半減施策というより、各村の地域間格差の是正が、第一の目的であったと考えられる。それは、史料によっても明らかだ。
 旧本渡市の各村新旧石高を見てみると、村高が大きく減少した村は、佐伊津、本戸馬場、町山口、宮地岳、志柿などの村で、逆に本泉、下河内、新休、食場各村等は増えている。史料の残っている中で、一番大きく減ったのは、佐伊津村のマイナス45・4パーセント。逆に最も増えたのは食場村の151・6パーセントであり、平均すると、65・4パーセント減となる(筆者計算)。
 さらに、石高是正を機に年貢率が引き上げられている(宗像家文書)事実も見逃せない。つまり、荒蕪した村の復興のため、これまで年貢率は引き下げられていた。しかし、この検地ころには村の回復も進み、年貢賦課率が全国の天領並みの水準に引き上げられたとみられる。
 また興味深いことに、「鈴木さま」は、村高が増加した本泉、新休、下河内村にあるのに対して、減少した本戸馬場、町山口、宮地岳、志柿にはない。これは、いわゆる石高半減が、鈴木重成を神として祀ることになったということに、大きな疑問を呈する。


 さて、「鈴木さま」建立についてみてみよう。
 一般的に「鈴木さま」と呼ばれているが、その惣社として、天草市本町に「鈴木神社」がある。その他社屋の「鈴木さま」は、高浜村、坂瀬川村にあり、その他は石祠か塚である。
 それではこの「鈴木さま」は、何時から造られたのであろうか。
 その前になぜどうして造られるようになったかということが疑問に浮かぶ。
 それは、鈴木重成の功に対して、恩に対してということは、間違いないだろう。では、「鈴木さま」建立が、農民の自発的行為なのか、上から命令または指示されたのか。
 松田唯雄著の『天草近代年譜』によると、「寛文五年(1665) 是頃 領主忠昌、先支配鈴木重成、重辰の功績を称え、郡民をして各村に鈴木塚を建てしむ」としている。ただし、根拠は不明とのこと。忠昌とは、戸田忠昌のことで、この年天草は天領から私領になっている。また、この年は、重成没後12年後であるが、重辰はまだ生存中である(重成没は1653年)。
 「鈴木さま」の建立として一番古いものは、河浦町今村の「鈴木塚」である。創建は万治二年(1659)で、建立者は一町田村の大庄屋松浦半佐衛門」である。
 「鈴木さま」は、島内一円に平均してあるかというと、そうではなく、疎密がみられる。多いのは、現町名でいうと、苓北町、天草市本町、天草町、栖本町、上天草市松島町などで、無いのは、上天草市大矢野町、姫戸、龍ヶ岳町、天草市有明町から下浦町へかけての上島西筋などで、少ないのは天草市天草町、河浦、牛深町、新和町などである。
 この分布の違いを、平田氏の説を参考にすると。
 ①姫戸町、龍ヶ岳町、御所浦町に「鈴木さま」がないのは、この地方はキリシタンの影響が少なく、真宗の影響が強かったためだと思われる。重成は、多くの寺社を創建しているが、禅宗、浄土宗が主で、真宗寺院は、建立していない。興味深いことに、創建寺院も分布が偏っており、御領組、本戸組に寺院も「鈴木さま」も多い。
 ②有明町から志柿町への西筋に、「鈴木さま」がないのは、この地はこぞって乱に参加して、無人の地となり、その地に移民により村が復興されたため、重成との関係が希薄だったためであろう。
 ③「鈴木さま」の建立が多いところは、先に述べたように、鈴木重成の宗教政策が重点的になされた地域である。それは、キリシタンであったが、重成によって、温情をこうむったことにより、感謝をした表れであったためか。
 「鈴木さま」に銘文のあるものは、約半数であるが、その年代はまちまちであり、古くは、万治二年(1659)であるが、ほとんどは1700年後半から1800年代である。もしこれが、再建年でなく、創建年としたら、何を意味しているのだろうか。
 また建立者も当然のこととして、庄屋などの村の有力者が多い。


 
各地の鈴木さま

 天草上島
 上天草市松島町合津 金毘羅山
  〃  松島町今泉 
  〃  松島町内野河内
 天草市倉岳町棚底 棚底天満宮
  〃 倉岳町棚底 棚底衹園社
  〃 倉岳町宮田 西の原
  〃 栖本町湯船原 諏訪神社
  〃 栖本町湯船原 中野
  〃 栖本町河内 河内神社
  
 天草下島
 天草市楠浦町寺中
  〃 新和町大宮地 大宮地八幡宮
  〃 枦宇土町大迫 大迫神社
  〃 枦宇土町宇津木 宇津木神社
  〃 枦宇土町平床
  〃 本渡町本泉 本泉神社
  〃 本町枦の原
  〃 本町新休
  〃 五和町井手 井手天満宮
  〃 五和町城木場 城木場
  〃 天草町高浜 高浜八幡宮
  〃 天草町大江 大江八幡宮
  〃 河浦町今富 今富神社
  〃 河浦町今富 中山十五社宮
  〃 河浦町今村 轟平
  〃 河浦町宮野河内 松崎十五社宮
  〃 牛深町下須島 正平  
  〃 久玉町 久玉八幡宮
 苓北町坂瀬川 坂瀬川神社
  〃 都呂々 大平
  〃  都呂々浜
  〃  都呂々木場
  〃  志岐 城下 若宮神社
  〃  白木尾 
 

 
自刃説に対する一考察

 天草島原の乱後、天草は山崎家治の私領となったが、あまりの荒廃故に一小大名の手に負えないとして、天領(幕府領)となった。そこを理解している重辰が、二代目として代官に任ぜられ、重成がやり残した仕事を完成させたが、重成がこのことを予想することはまず困難であったろう。
 次に任命される代官が、自分と同じような思いで、熱意を持って復興に取り組むとは限らないからだ。
 
 石高是正も、確かに重要な課題だが、それと同じようなことが、まだまだ多くあったはずだ。その重成が、自らの死で途中で終わらせることを、本意とするであろうか。逆に、病床にあって、一日も早く健康を取り戻したいと思っていたことだろう。死が避けられないと思ったとき、彼はそれこそ必死で、幕閣に、自らの復興に架ける思いを、訴えたことだろう。だから、二代目に、重辰を任命したと思われる。
 
 事実、重辰は重成の後を受け、重成に勝るとも劣らない復興策を行っている。
 重辰は、承応三年(1654)三月九日、天草二代代官に任命され、明暦元年(1655)六月二十一日に着任した。そして、寛文四年(1664)京都代官に転出するまでの10年間、代官として、重成が耕し種を蒔いた田畑に、苗を育て実を付けた。
 その最大の業績は、検地(万治検地)を行い、石高(村高)の是正である。それも大まかな是正でなく、事細かく正確を期した石盛を行っている。その結果、史料にみるように、すべての村が減じたのではなく、逆に増えている村もある。それでも、平等に正確に検地が行われた結果、増えた村人も不満なく受け入れたようだ。それは、その増えた村に「鈴木さま」が祀られていることからも想像できる。
 その他、民生諸般に数々の政策を実施した。
 つまり、重成の復興策は、まだ道半ばであったことが分かる。

 次に、病死説について見てみよう。
 まず、自刃を裏付ける史料は皆無だということである。逆に病死を裏付ける史料は多い。後ページにも記すが、一町田八幡宮の石灯篭には、鈴木重成公病即消滅福寿増長武運長久」と彫り込んである。建立月日は「承応二癸巳天八月吉日」となっており、死去する二ヵ月である。この石灯篭は、重成の寄進とされていたが、地域史家の鶴田文史氏の調査の結果、重成の病気祈願の石灯篭と判明した。
 また、重成死去後、富岡に建てられた供養碑には「参覲嚮武府至私宅不意就于病床日久矣医王拱手失術天哉命哉遂逝去」と記されている。これを現代文に訳すと、「参勤のため江戸に至ったところ、私宅に於いて不意に病床に就く。病床は長く、医王(薬師如来)も手をこまねいて、快復する術もなく、ついに天命かな、逝去する」
 その他芳證寺文書には「重成公寺社方の御主印為頂戴、御参府被有、江戸ニて御病死之跡、  」「郡内社寺へ御朱印地下賜稟請ノ為江戸ヘ上ラレ出府中遂に不幸病に罹リ逝去セラル依テ、・・」とある。ただしこの文書は重辰についての文書である。またこの文書は当寺古来伝承を昭和初期に芳證寺十八世宝山泰重が記したというので、史料的価値は薄いといえるかもしれないが。
 本戸組大庄屋木山家文書には「寺社山林境内御證文為頂戴御上厳之処於江戸御病死・・」とある。これは、十代大庄屋木山十之丞が文政年中の記録である。文政年間は、重成の死から約170後の世であり、こちらも絶対的史料とはなり得ないだろう。

これら両文書には、文書石高半減は重辰の働きとしている。
 
 自刃説を主張する人は、病気になって、自らの命が尽きんことを悟り、願いであった石高是正を嘆願するために、腹を切った言うかもしれないが、この両文書に、重辰の文書とはいえ、重成が江戸に上った理由に、石高に関するものは無いということだ。

 ではなぜ、自刃説が大手を振って、まかり通っているのだろうか。
 鶴田文史氏の研究によると、初めて自刃説が、世に出たのは、なんと昭和三年の事だという。初めて自刃説を唱えたのは、郷土史家の先駆者元田重雄だ。氏は郷土新聞「みくに」に、次のように投稿している。「一死以テ郡民塗炭ノ苦ヲ除カント決意シ其旨ヲ遺書シテ自刃セリ」
 
 この説が登場した背景には、時代背景があったと考えられるという。それは、日本は軍国化を強め、皇国史観が台頭していた時代であった。つまり、靖国にみられるように、国のために命を落とした人を神として祀る。このことにより人心を国威発揚に取り込んでいった時代であった。
 当時、「鈴木さま」は明治時代に「鈴木明神」という称号は得ていたが、
社格はなかったようだ。その神社の昇格運動と自刃説が、セットになったものと思える。
 当時の神社は、村社・郷社・県社・国社の社格があった。鈴木神社は無登録であった。そのため、県社に昇格させようという運動が昭和の初めに起きた。(鶴田説)
 社格制度は戦後廃止された。鈴木神社はとうとう村社にも昇格できなかったようだ。理由は不明だが。
 
 さて、うがった見方をすれば、鈴木重成を今日の我々が評価する時、自刃したか、病死したかで、その度合いが違うであろうか。たしかに、自らの死を賭して、天草島民のために尽くしたといえば恰好いい。逆に病死であれば、評価は低くなる。
 果たしてそうだろうか。病気は、重成にとっても不本意の事であり、自らの意志で、天草復興にさじを投げたのではない。
 病死であろうと、今日の人々が、重成を尊敬する気持ちは、微塵も変わりないと思う。

 さらに言うと、鈴木重成を貶める考えは毛頭なく、子供の頃から親や地域や学校で学んだ、鈴木重成に対する崇拝の念はいささかも揺るがない。ただし、史実は曲げてはならないということ。
 その歴史の真実は、不明な点だらけで、不明な点が真実よりはるかに多い。ある小説家や歴史史研究家が発した仮説や空説が、独り歩きし、いつの間にかそれが史実となっている例は、数知れない。
 その不可能ともいえる史実を研究することはもちろんだが、間違った史観を正す勇気も必要だろう。  

 歴史研究者には、さらに史料発掘等の研究に努められ、我らにより質の高い歴史、歴史の面白さを提供して欲しいと切に願う。
 ただ、小説は別で、史実と明らかに異なることでも、それはそれでいい。
しかし、この小説が、いつの間にか真実(史実)と受け入れられていることに、まじめな?筆者は、違和感を感じている。


 
鈴木重成関係略年譜


 天正七年 (1579) 重成の長兄、正三生まれる。
 天正十六年(1588) 重成生まれる。
 慶長五年 (1600) 関ヶ原合戦。重成の父重次家康に従軍。戦勝後三河国加茂郡に五百石を与えられる。
 慶長八年 (1603) 天草は、寺沢広高の領地となる。
 慶長十二年(1607) 正三の長男、重辰生まれる。
 慶長十九年(1614) 正三、重成ら4兄弟大坂冬の陣に従軍。
             重成、駿府の家康に仕える。
 元和二年 (1616) 家康没・重成は秀忠に仕えるため江戸に向かう。
 元和六年 (1620) 正三出家。
 寛永八年 (1631) 隠田発覚。全員処刑の奉行方針に、重成必死の嘆願で、女子供を助ける。
            この時処刑者の菩提を弔うため、一仏二十五菩薩像をつくる。
 寛永十四年(1637) 天草島原の乱起きる。重成、鉄砲奉行として参戦。
 寛永十五年(1638) 天草島原の乱終結。
            重成は、諸勢引き上げる中、残務整理のため島原に留まる。天草は、山崎家治支配となる。
 寛永十六年(1639) 島原滞在中の重成、天草荒廃の開発を命じられ、天草に渡る。
 寛永十八年(1641) 天草天領となり、重成、天草の代官となる。
            重成は、城に入らず、もと本戸郡屋敷に役所を構える。
            郡中に地役人採用。各地に遠見番を置く。    
            郡中を十組・八十六カ村に区分け。組に大庄屋、村に庄屋を配する。
            富岡に町制に布く。
 寛永十九年(1942) 重成、正三を天草に招き、教化を図る。
            乱後の住民減少に就き、移住を図る。
            重成上府。郡状を報告、寺社領寄与を願う。
            重成、寿覺院を皮切りに各所に寺社創建・再建を行う。その数21寺。
 正保二年 (1945) 浦方運上制定。
 正保四年 (1647) 富岡に天草島原の乱で戦死した供養塔を建てる。
 慶安元年 (1648) 重成寄進の首塚が原城跡に建てられる。
            寺社領寄与三百石。
 承応二年 (1653) 重成上府。江戸にて発病。
            一町田八幡宮に重成病気平癒祈願の石灯篭が建てられる。
            重成、江戸にて病没。
 承応三年 (1654) 富岡の飛龍宮に、重成の供養碑が建てられる。
            重辰が天草代官に任ぜられる。
 明暦元年 (1655) 鈴木正三没。
 万治二年 (1659) 天草の検地(高撫検地)が行われ、二万一千石となる。
            郡中七浦、浦方運改定。
 寛文四年 (1664) 重辰、天草代官を解かれ、天草は私領となり戸田忠昌に与えられる。
 寛文五年 (1665) 戸田忠昌、重成の功績を讃え、各村郡民に鈴木塚を建てさせる。
 寛文十年 (1670) 重辰死去。
 天明八年 (1788) 本村の鈴木社を石造りから茅葺きの社殿拝殿に改建。正三、重辰も鈴木三神として祀る。
            10月14日を社祭日として定め、相撲興行が始まる。石造り社殿は、牛深村へ付与。
 文化八年 (1811) 鈴木神社に鈴木明神伝碑が建てられる。
 文政六年 (1823) 本村鈴木神社に対し、神祇管長より鈴木明神と称すべき神宣状が下附される。
 文政七年 (1824) 鈴木明神の社殿再建成就。
 天保八年 (1837) 牛深村の鈴木神社、本村の分神50年を期して、石造り社殿改建。


 
参考資料

 『天草代官 鈴木重成 鈴木重辰関係史料集』 鈴木神社社務所 田口孝雄
 『鈴木重成とその周辺』 鈴木重成公没後三五〇年記念事業実行委員会
 『鈴木重成公小伝』 鈴木神社社務所 田口孝雄
 『天草 鈴木代官の歴史検証』 天草民報社 鶴田文史
 『幕藩体制と石高制』 塙書房 松下志朗
 『本渡市史』 本渡市
 『有明町史』 有明町
 『苓北町史』 苓北町
 『天草寺院・宮社 文化史料図解輯』 天草史談会 鶴田文史
 『天草近代年譜』 図書刊行会 松田唯雄
 『鈴木重成・重辰とその一族』 熊本地歴研究会 鈴木喬
 

  など 多数