宇良田玄彰  天草歴史人物


 宇良田唯(タダ) 顕彰碑     天草市牛深町 むつみ公園

 
   

  現地案内

  建 立 の 趣 意


 明治維新後日本南西端の孤島牛深に、日本女性として初めて異境の地ドイツに留学し辛苦をしのいでドイツの医学博士学位号「ドクトル・メディツィーネ」を取得した人がいました。
 その人は日本眼科女医界の先駆けとなった宇良田タダ女史です。
 現在の熊本県牛深市牛深町船津に父宇良田玄彰・母キシの二女として誕生したタダは、女医として当時寒村に過ぎなかった牛深村の病める人々を物心両面から助けました。
 また、結婚後北里柴三郎先生の助言をうけて中国の天津に雄飛した夫妻は、総合病院「同仁病院」を創設して成功しました。病院での患者に対しては、国籍や貧富の差を嫌って平等に接し、往診料を払えなかった患者さんには布団の下にそっとお金を置く事もあったそうです。
 このような大らかな行為は、自由民権の活動家として薩摩藩重鎮、西郷隆盛や大久保利通・黒田清輝らと親交のあつた父の豪放な性格にも似て、名誉よりも人間として尊い職業を志したすぐれた人徳であります。このことは「熊本県近代文化功労者」として認証されました。
 明治の黎明期にこの様に秀でた女医を輩出したことは牛深市民の誇りありますので、その存在を顕彰するとともに碑を碑を建立してその功績を讃え、後世に伝えることになりました。  なお、碑の建立は趣意に賛同された有志の方々の浄財により竣工したものであります。 

   
  足  跡 
 明治6年5月3日(1873)  天草郡牛深村2511番地(船津)に誕生
    13年10月  (1880)  潮東小学校(牛深小学校の前身)入学
    25年10月  (1892)  19歳 熊本薬学校(後の熊本大学薬学部)卒業・薬剤師となる
    29年10月頃 (1896)  私立医学校済生学舎入学(卒業生に世界的に著名な細菌学者野口英世・東京女子医大創立者 吉岡弥生など)
    31年6月  (1898)  25歳 医術開業試験(後期)に及第(官報第4480号) 医者となる
私立伝染病研究所(後の北里研究所)にて、北里柴三郎、浜田玄達らに学ぶ
    32年6月  (1899)  医籍登録(官報官報第4777号)・後に約2年近く牛深で開業
    35年9月  (1902)  「帝国独逸学会特別会員」となる
    36年1月10日 (1903)  29歳 ドイツのマールブルクへ横浜から出発 
      6月1日     父玄彰逝去(享年63)・翌年日露戦争勃発
   38年2月  (1905)  31歳 マールブルク大学学位号「ドクトル・メディツィーネ」授与さる
論文名「いわゆるクレーデ点眼液の効果に関する実験的研究」
帰国後、牛深にて開業・後に東京神田連雀町にて「宇良田眼科医院」を開業
   40年3月  (1907)  33歳 恩師北里柴三郎夫妻の媒酌で中村常三郎(島原出身の北里研究所薬剤師)と結婚し中村タダとなる。
夫と中国大陸に渡り、天津に総合病院「同仁病院」開業
 昭和7年5月3日(1932)  59歳 夫常三郎逝去・翌年帰国して牛深の生家近く(岡四のナナ薬局の所)にて眼科・産婦人科医院を開く
   9年    (1934)  再度上京し池上洗足町にて「中村眼科医院」を開業
   11年6月18日(1936)  〝日本と中国が戦争にならないこと〟を願いながら午前4時肝臓ガンのため東京にて永眠・享年63歳
   10年7月  (1937)  盧溝橋事件起きる
    追    記  遺書にはお世話になった方々へのお礼や夫常三郎に何もしてあげられなかった後悔・父への思いなど連綿と綴られている
分骨は牛深小学校近くの山頂に父玄彰とともに眠っている
《戸籍名はタゝ゛・歳は満年齢》
       平成18年3月5日
   注 原文を損なわない範囲で、編集しました。
  


  宇良田唯の足跡


 宇良田唯に関して、宇良田唯顕彰碑、牛深の郷土史家 吉川茂文氏の「苓州2号」に「宇良田 唯 -日本初の女性「ドクトル・メディツィーネ」- を参考にして、年譜形式で、私見も交え、宇良田唯の足跡を以下記してみたい。また、北野典夫著「天草海外発展史・南船北馬」も参考にした。年の食い違いが見られるので、この分は※で表した。
     
1873 明治 6    誕 生
 

 5月3日、天草郡牛深村船津に、銀主万屋第7代当主の父宇良田玄彰、母キシの次女として誕生。
 ※母の名は〝キン〟としている。
 戸籍名は「宇良田タゞ」。戸籍上唯と改名した様子はないが、唯は本人が好んで使った名前という。
 兄弟は、1男2女。宇良田玄彰は、前名を浦田仙七改名冠一郎で、銀主浦田家の最後の当主である。
 
1877 10 4    10月、唯4歳の時一家で上京する。自由民権思想家として活躍していた父玄彰(当時37歳)が、東京銀座の眞権社仮本局より「憂国議事新聞」を発行するためであった。
 この年、西南戦争勃発。父玄彰は、西南戦争の無謀さを訴える建白書・意見書を太政大臣三条実美や首謀者の西郷隆盛に送っている。もっとも、西郷へは届かなかった模様。
 
1880 13 7    10月、唯の就学のため帰牛。潮東小学校(牛深小学校の前身)に入学する。湖東小学校はもともと寺子屋として発足したが、明治5年の学制(太政官第214号)により、公立学校となった。
 この学制による初等教育は、小学校下等科4年、上等科4年制であった。
1888 21 15    8年間の尋常科、高等科を修業し、同小学校を卒業。
小学校卒業後、進学は?
 
1890 23 17    近くの富豪「塩屋 濱田家」と若旦那と縁談がまとまっていた。
 だが唯は向学心にあふれていたため、この縁談を断り、若旦那、濱田家も、唯の向学心への理解を示し、離別することを承諾した。先に放映された唯の生涯に光を当てる、TKUのドラマでは、ドラマチックに花嫁衣裳の唯が、結婚式の途中逃げだすという、ドラマチックなシーンがあったが、これは創作だろう。悧巧な唯が、そういう行為を行うことはないと思うし、また村社会でそういうことをすると、家そのものが村全体の反感をかう事は明らかだからだ。
 唯は、早速熊本の親戚で薬局を営む「吉田松花堂」へ向かう。吉田松花堂の吉田順碩は、シーボルトに医学を学んだという。
 ※でも結婚式の途中で姿を消したとしている。一説には2,3か月間新婚生活をした後家を出たとも。
  
   熊本の「九州薬学校」(母校は熊本薬学校)に入学。保証人は吉田氏。
 
1892 25 19    薬剤師となる

 熊本薬学校(後の熊本大学薬学部)卒業。卒業後国家試験に合格し、薬剤師名簿に登録される。
 
1894 27 21    8月、松花堂のところで、父玄彰と漢方薬局を開業。
 
1896 29 23    薬剤師では飽き足らず、医学の道への向上心に燃えていた唯は、私立医学校済生学舎入学。この学舎は開校当時女子の入学は許されていなかったが、先にベルリン大学で学んだ高橋瑞子が門戸を開いていたため、運がよかったといえよう。後に再び女子の入学は禁止されている。
 この学舎の卒業生に、世界的に著名な細菌学者野口英世・東京女子医大創立者 吉岡弥生などがいる。
1898 31 25    医者となる

 この学校の修学期間は3年であるが、唯は薬学を学んでいたため、2年間で、医術開業試験(後期)に合格し、医籍登録(官報第4480号)され、遂に医者となる。
 医者となった唯は、この後1年余牛深で開業する。
 
   私立伝染病研究所(後の北里研究所)にて、北里柴三郎、らに学ぶ
明治32年6月(1899)牛深で開業していた唯は、再度上京。内務省管轄の「国立伝染病研究所」に入所。さらに、北里柴三郎が所長を務める「伝染病研究所」の助手となる。ここで日本で初めて帝王切開手術を行った浜田玄達博士(宇城市三角町出身)もいて、個々での勤務・終業がドイツ留学への登竜門となった。
 ※では、1902年、30歳の時上京、北里研究所の助手として入り、とある。
 
1902 35 29    9月、明治35年9月(1902)ドイツ留学を目指した唯は、独学でドイツ語を習得し、「帝国独逸学会特別会員」となる。
 吉川論文「宇良田唯」には、帝国ドイツ学会会員証の写真が掲載されているが、表記は次のようになっている。
  「 帝國獨逸學會特別
    會員タルヲ證スル為メ
    會則ニ依リ茲ニ此會
    員證シ呈ス
      明治三十五年九月七日
       帝國獨逸學會 ㊞
     宇良田唯殿     」
1903 36 30    ドイツ留学
 
 日本女医会の新年会兼ねた送別会後、横浜からドイツのマールブルクへ出発 
 この送別会の幹事が、後の東京女子医科大学の創設者となる、済生学舎で学友の吉岡弥生であった。ちなみに当時何人ほどの女医がいたのであろうか。
 マールブルク大学に入学した唯は、朝7時から夜7時までぶっ続けに全科の受講の他に眼科の勉強に励む。
 
   さて、ドイツへの留学費は私費であり、相当な金額であったが、この学費は、父玄彰、兄小三郎、、吉田順碩氏らが出している。唯はこの費用を綿密に記した「洋行費予算」を残しているというが、ちょっと見てみたい気もする。
 
   父の死
 
6月1日、腎臓病を患っていた父玄彰が死去する。(享年63)
 父を物心両面に渡って頼りにまた慕っていた唯の悲痛はいかほどであったろう。
 父は病中、異国の娘を想い、次のような句を詠んでいる。

 「 敷島の 日本は今や 花盛り
   異国はいかが 春風の吹く 」
 
1904 37   日露戦争勃発。
 
1905 38 32   日本初の女性「ドクトル・メディツィーネ」学位取得

 2月、マールブルク大学学位号「ドクトル・メディツィーネ」授与される。日本初の女性ドクトルの誕生である。論文名は「いわゆるグレーデ点眼液の効果に関する実験的研究」。
 
1906 39 33    帰国

 帰国後、牛深にて開業。後に東京神田連雀町にて「宇良田眼科医院」を開業する。
 
   9月13日付けの朝日新聞に医院の開業を知らせる広告が、前述の論文に乗っている。
  「   開業広告
     私儀多年ドイツ留学中の処今般帰朝眼科専門開業仕候
       神田区連雀町十八番地郵便局留
      ドクトル 宇良田唯子   」
 ( 注・現文の漢字は旧字体・連雀町は現在の千代田区神田須田町)
1907 40 34    結 婚

 恩師北里柴三郎夫妻の媒酌で中村常三郎(島原出身の北里研究所薬剤師)と結婚する。
 媒酌人は、兄小三郎が出した結婚通知には、北里柴三郎とあるが、同一の用紙の夫常三郎の文面は塩田真が媒酌人と記されている。
 また、結婚すると普通夫の姓中村になるはずだが、同通知には、「猶都合により当分旧姓を用い・・」と記されている。
 ※では、明治44年(1911)、39歳で結婚したとしている。
 
   中国で病院を開業

 結婚後直ちに、北里柴三郎の勧めで、夫婦で中国天津に渡り、「同仁病院」を開業する。
夫と中国大陸に渡り、天津に総合病院「同仁病院」開業
 同仁病院は、日本租界新寿街にあり、鉄筋コンクリート3階建ての堂々とした病院であった。
 入院室は10室あり、眼科、産婦人科、内科、小児科を設けた。院長は唯。
 また同じ建物に、夫が営む薬局「陞恒(しょうこう)大薬房」と印刷所「東華石印刷」もあった。
   病院には中国史人ボーイ4人、看護婦(現在は看護師と呼ばれるが、当時は看護婦という名称であった)は、牛深出身の竹井キゲヨほか、天草の女性であった。
 他国で一番困るのは、言語だが、唯はドイツ語の他に中国語、英語も話すことができて、問題はなかったという。
 
   医学の他に、外国語にも通じるとは、唯は「タイシタオナゴ」であった。
 この中国でのエピソードとして、TKUのドラマでもあったが、貧しいものからは金は取らないどころか、そっと布団の下に金を偲ばせていたという事や、ニンニクを食べて臭いので、口を押えていた女性に対してもそれなら自分もニンニクを食べたらいいというエピソードが残っている。 
 これではまさに、女性版赤ひげ先生ではないか。
 
1914 大正 3 41    大正3年(1914) 恩師北里柴三郎が「私立北里研究所」を設立。大正6年には慶應義塾大学の医学部創立に尽力し、大正12年には、日本医師会を創設し、初代の会長に就任と活躍をしている。
   ただの中国での病院経営の詳細は明らかではないようだが、26年間にも及んだという事はも順風であったと推察される。
 だが昭和に入ると、戦雲が漂い始める。昭和6年満州事変(栁条湖事件)、昭和7年上海事変、5.15事件、昭和8年国際連盟脱退へと日本は戦争への道を歩み始める。
 こうなると、安心して中国での医療従事は困難となる。
 
1932 昭和 7 59    夫の死 と 帰国
 
 そんな矢先、二人三脚で苦楽を共にしてきた夫常三郎が亡くなる。
 唯は「病気を治すのが自分の仕事なのに、なぜ愛する夫を心いくまで看病できなかったのか」と悔やみ悩んだそうである。夫の死は病死であったようだが、病名は不明のようだ。
 ※では、夫の死を昭和8年(1933)としている。
 
1933 8 60    同仁病院の一部が天津駐屯日本軍司令部が接収、夫の死もあり、中国での医療従事は難しくなり帰国する。
 中国へは二人で行ったが、帰国は寂しく一人であった。
 唯も健康がすぐれなかったようである。
 帰国後まもなく、牛深の生家近くに眼科・産婦人科医院を開業。
 ※では、帰国を昭和9年としている。
 
1934 9 61    再度上京し池上洗足町(現在の大田区南千束)にて「中村眼科医院」を開業する。でも、患者は少なかったという。
 ただし、この時期、北里門下の赤痢菌を発見した志賀潔、癌研究所の稲田博士や中国の留学生たちと、余生を楽しんだという。
 
1936 11 63    死 去

「日本と中国が戦争にならなけれはいいが」と念じながら、北里研究所の学友稲田博士に看られ、午前4時肝臓ガンで波乱の生涯を閉じた。享年63歳であった。
   葬儀は、兄小三郎が東京に出向き喪主となって行われ、吉岡弥生他一流の医学者が参列し行われたという。
 
   唯の遺骨は分骨され、牛深の小高い丘に父玄彰と共に眠っているという。小高い丘とは、牛深小学校の向にある銀主浦田家の墓碑群のところかと思われるが、そこを探したが見つけることができなかった。
 
 お断り 敬称は略しました。


 宇良田タダに関する資料

   「宇良田唯」吉川茂文 「苓州」2号 天草の自然と歴史を語る会発行 に収載
   『天草海外発展史 下巻」』「南船北馬」 北野典夫 葦書房
   「新・天草学」海外雄飛群像-女医・宇良田唯 熊本日日新聞社
   『天草五十人衆』「宇良田タゝ゛」 天草学研究会 弦書房

    他