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牛深の歴史・文化碑

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 平野成政碑    鳥帽子抗    宇良田玄彰  
 官軍墓地    鎮魂の丘     御用井戸  
 西国三十三観音像    無量寺石橋     牛深鰹流れ舟慰霊碑  
 一石二字一宇十念供養石佛    遠見番所    遠見山の野口雨情歌碑  


NHK連続テレビ小説 藍より青く 記念碑    天草市牛深町天附 通天公園


牛深を舞台にした、NHKの連続テレビ小説「藍より青く」は、昭和47年に放映された。
脚本、山田太一。主演、真木洋子。
「あいよー」という牛深弁が大評判となり、全国的に天草・牛深をアピールした。
この年、ボクは北海道を自転車で回ったが、どこから来たのかと問われ、「天草です」というと、あの「藍より青く」の天草ですかと、本来なら地名知らなくてもおかしくない北海道の人にも、天草を知らしめたドラマであった。  
ちなみに、真木洋子が演じた役名は「真紀」。この名からとった、「まきしゃん漬け」というイカの塩辛が、港の近くのみなと屋という土産物店で売られている。普通イカの塩辛は、はらわたも利用しているが、この塩辛は身だけで作られており、ボク的には大変おいしい。
 なお、主演の真木洋子さんは、ほどなくして亡くなったという。
 また、このドラマのVTRは無いという。残念だ。

太平洋戦争末期から敗戦後にかけての、熊本県天草を舞台にしている。

ヒロインの真紀は、厳格な校長である父に反対されながらも網元の息子周一と結婚するが、長男が生まれる前に夫は出征、そのまま帰らぬ人となる。周囲に支えられながら、真紀は戦争未亡人同士で商売を始め何事にも負けず強く明るく、中華料理店を経営するまでを描いた。

NHKのアーカイブには、第1回しか残されていない。当時、家庭用ビデオデッキは存在したが、テープの経年劣化も考えると、視聴者が録画して現在まで保存している可能性は低く、放送映像が民間から発見される可能性はほとんどない。そのため全話の再放送および全話収録の完全版映像ソフトの製作・発売は困難である。

1972〜73年の平均視聴率は47.3%、最高視聴率は53.3%であった
(関東地区、ビデオリサーチ調べ)

<ウィキペディア>

映画ならばフィルムが残っているが、ビデオで撮影されたようで、それが現存していないというのは、何とも悲しい。
更に悲しいのは、いっぱいの笑顔を見せて、熱演してくれた主演の真木洋子さんが、2000年に51歳の若さで亡くなった(急性骨髄性白血病)ことだ。
 
「藍より青く」は、私たちに郷土のもつ美しさと、ありがたさを、強く心にきざみつけた作品でした。祖先から受けついだこの自然美、そしてここにつちかわれた人情を、余すところなく後世に伝えるため、市民各位の浄財を仰ぎ、撮影を記念して、ここに碑を建立しました。
   昭和49年3月吉日
   記念碑建立期成会
   会長 牛深市長 西村武典
   副会長 観光協会長 川上武一
   仝商工会議所会頭 桑島峯男 
  この港のなにが私をとらえたかを一口に言うのは難しい。
それは青い海であり、舟群、家並、路地、裏山であり、人々であり、そのいちにちであり、歴史であり、四季でもあった。
私の物語に他の舞台を考えることは出来なかった。
 山田太一 
  原作者 山田太一
主 演 真木洋子
放映開始 昭和47年4月3日
放映終了 昭和48年3月30日
 

ハイヤ節発祥の地碑   天草市牛深町通天公園近く 他

 牛深といえばハイヤ節。ハイヤ節といえば牛深。
 ハイヤ節は牛深の生れながら、その子孫を全国各地に伝えている。
  
  ハイヤハンヤは
  何処でもやるが
  牛深ハイヤは
  元ハイヤ


 「ハイヤ節」は元禄時代から唄いだされたもので、当時の船乗り達が荒浪を越える人達の心情を唄いあげたものである。当時寄港船の船乗りを相手に、牛深で女が大いにもてなし、時化ともなれば何処の料亭も賑わいを見せ、三味線、太鼓等その場に有るものをたたいて調子をとり、熱狂的に唄い踊り一文無しになる迄遊び過ごした姿を、「酒盛り唄として唄いつがれたのがハイヤ節」だと伝えられ、密貿易船と共にサツマ、長崎、北海にと、日本海の暖流に乗って全国にの港町に上陸し、歴史と共に唄い続けられてきたが、これを牛深市恒例の「ハイヤ祭り」として永く後世に残すため、この碑を建立するものである。
 
 牛深ハイヤ節

 (一) ハイヤエーハイヤ

    ハイヤで今朝出した船はエー

    何処の港にサーマ入れたやらエー

     エーサ牛深三度行きゃ三度裸

     鍋釜売っても酒盛りゃして来い

     戻りゃ本渡瀬戸かち渡り

 (二) ハイヤエー北風かと

    思えばまた南風の風ヨー

    風さえ恋路のサーマ邪魔をするエー

     エーサ黒島沖からやって来た

     新造か白帆か白鷺か

     よくよく見たればわが夫様だい

 (三) ハイヤエーハイヤ

    ハイヤで半年ゃ暮すエー

    あとの半としゃサーマ 寝て暮すエー

     エーサ段々畑のサヤ豆は

     ひとサヤはしれば皆はしる

     私ゃお前さんについて走る

 (四) ハイヤエー大島

    片島、片潮かけてヨー

    なぜに法ケ島がサーマほげたやらエー

     エーサ南風の風ゃそうめん北東風ゃだして

     も一ついれこで味ゃよかろ

 (五) ハイヤエーとっちゃ投げ

    とつちゃ投げ三十四、五投げたエー

    投げた枕にゃサーマ罪はないエー

     エーサ何処から来たかい薩摩から

     いかりも持たずにようきた様だい

    

 (六) ハイヤエーたんと

    売れても売れない日でもエー

    同じ調子のサーマ風車エー

     エーサ魚貫万匹、茂串鯖、宮崎鰹ン骨

     横ぐわえ加世浦キビナゴ逆すごき

     天附渡れば室鯵の魚、三ごんなめたらどっとした

 (七) ハイヤエー咲いた

    桜になぜ駒つなぐエー

    駒が勇めばサーマ花が散るエー

     エーサ風が寒いか師走が寒いか

     風さえ吹かねばいっしょまっしょ六月

    

 (八) ハイヤエー鯛に

    鰹に、鯵、鯖、鰯エー

    鰤に万匹サーマ 鱶の山エー

     エーサ牛深良いとこ一度はおいで

     人情豊かな港町

 

 (九) ハイヤエー船は

    出てゆく、帆かけて走るエー

    茶屋の娘がサーマ出て招くエー

     エーサあおさやったとん届いたかい

     届いて煮て吸っても舌焼いたサイサイ

    

 (十) ハイヤエー沖の

    瀬の瀬にドンと打つ波はエー

    あれは船頭さんのサーマ度胸定めエー

     エーサ権現山から後ろ飛びゃするとも

     お前さんに暇状は、やいもせんば といもせん

 
 
<参考資料>
 天草の史歌・民謡集 鶴田文史編 天草史歌民謡研究所刊
 はいや・おけさと千国船 竹内勉著 本阿弥書店刊
 
 


平野成政碑   
天草市深町真浦 船津丸山墓地

  
  天草市指定文化財
 
平野成政碑
  指定年月日 昭和55年4月1日

 延享元年(1744)、牛深沖に多数の木材が漂流してたため、漁民たちはこの木材を持ち帰って使用しました。後日、その木材は全焼した江戸屋敷の新築用材として島津藩が輸送中だったものということがわかりました。その当時の遠見番所見張り役だった平野成政がすぐにその責任を負って職を辞したため、多くの漁民は罪に問われませんでした。成政はその後、寺子屋を開いて牛深の人々のために尽くしました。この碑は平野成政の死後、その遺徳を偲び、明和九年(1772)に弟子により建立されたものです。
  平成22年3月  天草市教育委員会

 『天草近代年譜』松田唯雄著 には、この平野成政関連について、次のように記している。

 延享元年(1744) この歳 牛深附遠見番平野務右衛門成政、故あって職を辞し、牛深村加勢浦に住し、養六と改称、写字を以って童輩に授く、室は八田重長の二女止良子、三男三女を生む。長男織之介、長じて八田家を継ぐ、これ八田織兵衛英信なり。

 寛延元年(1748) 九月二五日 富岡附山方役二代八田織右衛門重長没す。年六十.。富岡瑞林寺に葬る。跡役、養嗣子織兵衛栄進これを継ぐ。

 明和元年(1764) この歳 牛深村加勢浦平野養六の家塾を、同村船津の衆徒議して一向宗庵室とな為し、秀月庵と号す。・・・

 寛政八年(1796) 富岡附遠見番三代八田織兵衛英信没す。年六十六。富岡瑞林寺に葬る。実は、牛深附遠見番平野務右衛成政の長男、生母二代八田重長の二女なり。


官軍墓地  
 天草市深町真浦 船津丸山墓地


   天草市指定文化財
 
 官軍墓地
   指定年月日  昭和55年4月1日

 明治十年(1877)に西南戦争が勃発します。西南戦争といえば、熊本城籠城戦や田原坂の戦いが特に有名ですが、天草も無関係ではありませんでした。葦北や八代方面から疎開してきた人々が流入し、また物資調達や軍夫募集の目的で薩摩や熊本士族で構成される鎮撫隊が天草へ入り込みました。このとき、鹿児島川内分署より牛深に派遣されていた警視局四等巡査、木村脩はその取締りのために日夜奔走し、住民を不安から守ったといわれています。しかし、そのためか同年九月に三十歳の若さで病死しました。その遺徳を偲んで今もなお、供養が続けられています。
 平成22年3月   天草教育委員会
 


西国三十三観音像
  天草市久玉町無量寺境内  

   天草市指定文化財
 
西国三十三観音像
 指定年月日 昭和55年4月1日

 三十三観音の由来は、「法華経」普門品(観音経)に書かれており、衆生を救うために観音が三十三身となり現世に現れるとの所説にちなんで考えられたものである。
 この観音像三十三体は、久玉町本郷から中の浦(旧道に通ずる道脇に祀られ、通行人や地元民が参拝していたが、昭和7年(1932)の県道の拡幅等によって久玉山無量寺境内に移転安置し、供養されている。
  平成21年3月 天草市教育委員会

 一石二字一字十念供養石佛  天草市久玉町無量寺境内  
  天草市指定文化財
 
一石二字一字十念供養石佛
  指定年月 昭和55年4月1日
  所有者  無量寺

 浄土宗の教え、大乗三部妙典の筒を手に持つ供養石佛で、宝暦元年(1751)無量寺六世清譽観澄の時代に建筒されたものである。
 正面右側に一石二字、左側に一字十念、中央部に奉書写大乗三部妙典、左側面には、趣意書が書かれている。
 平成21年3月 天草市教育委員会